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マンガ de 社会問題
第25回 朱戸アオ『リウーを待ちながら』
前原政之(フリーライター)「コロナ禍を予見した作品」はマンガ界にもあった
- 『リウーを待ちながら』(イブニングコミックス)
「新型コロナウイルス感染症/COVID-19」(以下、コロナと略)は、いま(2020年5月)なお収束には遠く、世界のあらゆる分野にその破壊的影響が及んでいる。
そうした状況のなか、致死的な感染症のアウトブレイク(感染爆発)やパンデミック(世界的大流行)を描いたフィクションが、各界で注目を浴びる現象が起きている。
フランスの作家カミュが1947年に発表した小説『ペスト』が各国で時ならぬベストセラーになったことは、その代表例だ。
日本の小説でも、小松左京が1964年に発表した『復活の日』が、未知のウイルスのパンデミックを描いた終末テーマのSFとして再注目を浴び、ベストセラーに。
また、高嶋哲夫の小説『首都感染』(2010年)は、「コロナ禍を10年前に予言した作品」として話題を呼び、やはりベストセラーになった。同作は、中国で発生した強毒性新型インフルエンザ・ウイルスが東京でアウトブレイクし、政府が都心部の完全封鎖を決断するというストーリーである。
映画の世界でも、スティーブン・ソダーバーグ監督の感染症パニック・サスペンス『コンテイジョン』(2011年)が、コロナ禍を予見したかのような内容で話題になった。9年前の作品にも関わらず、NetflixやU-NEXTで視聴ランキング1位を獲得するなど、まさにいまヒットしているのだ。
マンガ界にも、コロナ禍で注目された作品がある。今回メインで取り上げる『リウーを待ちながら』と、その原型である『Final Phase』、そして、『インハンド』シリーズの一編「ディオニュソスの冠」――3作とも朱戸(あかと)アオの作品である。
朱戸アオは、「医療マンガ」の新たな描き手として脚光を浴びている俊英だ。
初の単行本『Final Phase』(2011年)からして、ウイルスのアウトブレイクを描いた医療パニック・マンガであった。
現在『イブニング』(講談社)で連載中の『インハンド』も、天才寄生虫学者・紐倉哲を〝名探偵〟役に据え、さまざまな感染症が題材となる医療ミステリー・シリーズである。同作は2019年にテレビドラマ化もされた。
作中で披露される広範な医学知識、描かれる医療現場の高いリアリティから、作者も元・医療従事者かと思いきや、そうではないという(美大出身)。公式ブログ「朱戸アオのつめあわせ」には、次のような記述がある。
「ありがたい事によく誤解されるのですが、朱戸は医療関係者でも医療を勉強していた人間でもありません。追いつめられて本を読んで人に話を聞いて少しそちらに詳しくなった漫画家です」
『ブラックジャックによろしく』『コウノドリ』『フラジャイル』など、ヒット作が次々と生まれる医療マンガは、近年のマンガ界でひときわ熱いジャンルである。だからこそ、他のマンガ家にはない独自性も要求される。
このジャンルでは後発作家である朱戸は、感染症の世界を描くことによる他の医療マンガとの差別化を、戦略として選んだのかもしれない。そう思わせるほど、感染症を題材とした作品が多いのだ。
先に挙げた朱戸の3作は、それぞれが随所にコロナ禍との符合を感じさせる予見的作品である。
「ディオニュソスの冠」(『インハンド プロローグ』Ⅱ巻収録)を例にとってみよう。この短編は、「SARS、MARSに続いて新たに出現した第3の致死性の高いコロナウイルス」が日本に上陸する危機を描いている。2016年に発表されたにも関わらず、まるでコロナ禍以後に描かれたかのように、いまの現実をなぞっているのだ。
とくに、無症状の「不顕性感染者」が、無自覚なままウイルスをバラまく「スーパースプレッダー」と化すという展開は、まさにコロナ禍で現実に起きたことであり、その優れた予見性に驚かされる。
日本版『ペスト』を目指した「アウトブレイク・マンガ」の傑作
朱戸アオの作品のうち、コロナ禍との類似性が最も高いのは「ディオニュソスの冠」である。ただし、「感染症のアウトブレイクを描いた」という観点で評価するなら、最も優れた作品は『リウーを待ちながら』だろう。全3巻の長編だ。
タイトルには、「わかる人にはわかる」知的なくすぐりが二重に込められている。これは、不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』(ベケット)をもじったタイトルであり、「リウー」とはカミュの『ペスト』の主人公――医師ベルナール・リウーを指す。
このタイトルが示すように、『リウーを待ちながら』は作品全体が『ペスト』を意識的に下敷きにして作られている。
『ペスト』は、1940年代のアルジェリアのオラン市にペストが発生し、感染拡大を防ぐため都市封鎖される物語であった。一方、『リウーを待ちながら』は、富士山麓に位置する架空の地方都市・横走(よこばしり)市でペストのアウトブレイクが起こり、都市封鎖される物語なのだ。
『リウーを待ちながら』は、いわば『ペスト』のマンガ版・21世紀版・日本版を目指した作品なのである。
すでに述べたとおり、この作品の「原型」となったのが『Final Phase』。朱戸が初めて感染症を題材にした作品であり、コミックス1巻で完結の中編だ。
学生時代にカミュの『ペスト』に感動し、「あんな話をいつか描きたいな」と思っていたという朱戸が、初の連載というチャンスを得たときに挑戦したのが、まさに『ペスト』を「元ネタ」(朱戸の言葉)にした『Final Phase』だったのだ。
東京湾岸の架空のエリア「潮浦地区」を舞台に、ハンタウイルスのアウトブレイクによって地区が封鎖されるストーリーであり、『ペスト』のオラン市を潮浦地区に置き換えたような作品だ。主人公の女医・鈴鳴涼子の名がベルナール・リウーのもじりである(鈴鳴=ベル鳴る)など、主要キャラクターの配置も『ペスト』に倣っている。
骨格を『ペスト』から借りているとはいえ、『Final Phase』はたんなる模倣作ではなく、「アウトブレイクもの」として独自の価値を持つ力作だ。21世紀の東京を舞台にした作品としてのリアリティも申し分ない。初連載作だけあって絵には生硬さもあるが、「習作」という印象はなく、これはこれで完成されている。
それから数年後、『イブニング』の編集者からの「『Final Phase』の拡大版を描いてみないか」という提案を受けて描かれたのが、『リウーを待ちながら』なのだという。
「『Final Phase』は最初から1巻完結と決まっていて描ききれなかったエピソードがたくさんありました」「キャラクター配置は一部そのままに、新たな要素をガンガン入れてスケールが少し大きくなりました」(公式ブログより)
主人公の女医と、彼女の相棒としてアウトブレイクに立ち向かう疫学者の関係は『Final Phase』のままだが、ほかの要素はことごとくスケールアップしている。『Final Phase』で封鎖されるのは一地区だが、『リウーを待ちながら』では地方都市が丸ごと封鎖される。登場人物はいっそう多彩になり、見事な群像劇になっている。
「リメイク」とはいえ、両作にはディテールに重複がなく、別作品として読める。そのうえで、「『ペスト』の21世紀版」を目指したマンガとしては、やはり『リウーを待ちながら』こそ決定版といえるだろう。
たんなる「パニックもの」に終わらない哲学的深み
21世紀の日本でペストがアウトブレイクする物語にリアリティを持たせるため、『リウーを待ちながら』では周到な工夫が凝らされている。
まず、感染源として、中央アジアに広く生息するげっ歯類「タルバガン」(シベリアマーモット)が設定されている点だ。タルバガンは、「世界で唯一ノミを介さず原発性の肺ペストをばらまく事ができる」(コミックス1巻)動物。キルギスで起きた大震災に際し、復興支援で派遣された自衛隊員がペストに感染。日本に持ち帰ってしまい、駐屯地のある横走市でアウトブレイクするという設定なのだ。
また、現代ではペスト感染者の大半は治療を受ければ助かるといわれているが、その点についても、多剤耐性を持つ(=ストレプトマイシンなどの特効薬が効かない)ペスト菌という設定によって、致死性の高さにリアリティを与えることに成功している。
それ以外にも、細部のリアリティに感心させられる作品である。感染者への差別、マスクの品切れ、濃厚接触者の自宅隔離など、描かれるディテールの多くは、コロナ禍のいま現実に起きていることだ。本作をコロナ禍の前に読んだら絵空事に思えたかもしれないが、いま読むと怖いくらいリアルである。
感染症のアウトブレイク/パンデミックを描いたフィクションは、往々にして「たんなるパニックもの」になってしまいがちだ。あたかもゾンビ映画のゾンビを感染症に置き換えたかのように、恐怖や逃げ惑うスリルを即物的に描くだけに終わってしまう例が少なくないのだ。
しかし、『リウーを待ちながら』はそのような陥穽を免れている。感染をめぐるスリルとサスペンスは随所にありつつ、それだけには終わらない。疫病による死という不条理に向き合う人々の姿を通して、「人間は運命とどう戦うべきか」という根源的・普遍的な問いを読者に突きつけるのだ。カミュの『ペスト』がまさにそうであったように……。
その一点において、「アウトブレイクものの名作」と呼ぶにふさわしい。