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マンガ de 社会問題
第20回 さいきまこ『神様の背中 ~貧困の中の子どもたち~』
前原政之(フリーライター)「子どもの貧困」を真正面から見据えた社会派マンガ
- 神様の背中 ~貧困の中の子どもたち~(秋田書店)
数多い社会問題の中でも、「子どもの貧困」はいまの日本にとって特に大きな問題と言える。なぜなら、日本の「子どもの貧困率」はOECD(経済協力開発機構)加盟国の平均を上回っており、国際的にも深刻な水準にあるからだ。
「日本には貧困状態にある子どもが6人に1人もいる」という話を、マスコミ報道で目にした人は多いだろう。厚生労働省が3年おきに行う「国民生活基礎調査」による「子どもの貧困率」に基づくもので、2012年度は過去最悪の16・3%であったのだ。
2015年時点での「子どもの貧困率」は13・9%で、前回調査から2・4ポイント下がった。その改善は、日本経済の上昇傾向の反映であろうし、公明党が主導して13年に成立した「子どもの貧困対策法」も影響しているだろう。
とはいえ、いまなお「日本の子どもの7人に1人は貧困状態」であり、「子どもの貧困」が広範で深刻な社会問題であることに変わりはない。
そのような状況を反映して、「子どもの貧困」をテーマにした一般書は、ここ数年たくさん刊行されてきた。小説の世界でも、栗沢まりの『15歳、ぬけがら』や天祢涼の『希望が死んだ夜に』など、「子どもの貧困」を描いた作品が、2017年に相次いで刊行された。
そしてマンガ界では、今回取り上げる『神様の背中 ~貧困の中の子どもたち~』(2015年刊)が、「子どもの貧困」を真正面から見据えた作品の先駆として、強い印象を与えた。
作者のさいきまこさんは、社会問題を扱う作品を一貫して描いてきた「社会派マンガ家」である。2013年の『陽のあたる家 ~生活保護に支えられて~』は、生活保護を本格的にテーマとした初のマンガとして脚光を浴び、「貧困ジャーナリズム大賞2014」の特別賞も受賞した。
2017年秋に刊行された最新作『助け合いたい』も、「老老介護」や「パワハラに起因するうつ病」などの社会問題を、一つの家族を通して描いている。
いずれの作品も、専門家や問題の当事者たちに丹念な取材を重ね、事実をふまえてリアルに社会問題を描いているのが特徴だ。この『神様の背中』も、巻末には取材協力者・協力団体の名がずらりと列挙されている。いわば、“ノンフィクションに近いフィクション”なのだ。
「貧困=自己責任」論へのささやかな挑戦
『神様の背中』の主人公は、公立小学校の教師・仁藤涼子。かつて出産を機に退職し、12年ぶりに臨時採用で現場復帰したという設定だ。
さいきまこさんは、ウェブメディア「マチバリー」のインタビューで、「社会的なテーマを描くには、仕事でそこに関わっている人物を主人公に据えるのが、問題をフラットに提示するために有効なんです」と述べている。まさに、そのために小学校教師が主人公に選ばれたのだろう。
涼子が担任する5年生のクラスには、貧困家庭の子どもが複数いた。親から食事を与えられず、空腹のあまりコンビニでおにぎりを万引きする子などである。そのことで、彼女は教師として初めて「子どもの貧困」の問題に直面する。涼子が教育現場を離れていた12年の間に、日本の「子どもの貧困」が急速に深刻化したことが、この展開の中に含意されているのだろう。
涼子は新任時代、先輩教師から「すべての子どもは親や社会に守られて育つ権利がある/いわば神様に愛されているんです」と言われた。だが、眼前にいる貧困家庭の子どもたちは、神様から背中を向けられているかのように苛酷な状況に置かれている……それが、タイトルに込められた意味である。
『神様の背中』の前作に当たる『陽のあたる家』では、ごく普通の4人家族が、夫の病気を機に困窮に陥り、生活保護受給世帯となる姿が描かれた。一家の貧困は誰がどう見ても「自己責任」ではなく、読者が「たしかに、こういう家族は生活保護を受けるべきだ」とすんなり納得できるように描かれていた。
この『神様の背中』にも、生活保護を受けている母子家庭が登場する。だが、その家の母親は、ろくに仕事もせず、男と遊び歩いてはその様子をSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にアップし、大量飲酒をくり返すアルコール依存症ぎみの女性なのである。彼女は、娘の担任教師である涼子が面会を求めても、その約束を平気ですっぽかす。
そのような母親をあえて登場させたことは、世の中に多い「大人の貧困は大半が自己責任・自業自得であり、税金を使って救うことはない」という声(それが「生活保護バッシング」に結びつく)に対する、作者のささやかな挑戦とも思える。その母親の内面を描写することによって、「自己責任」に見えるケースでも、その人なりのやむを得ない事情から貧困に至っている場合が多いことを、読者に理解させようとしているのだ。
それに、たとえ親の貧困が自己責任であったとしても、その親の元に生まれた子どもの貧困は、断じて自己責任ではない。
「貧困の連鎖」を断ち切る方途を探るマンガ
『神様の背中』のストーリーは、中盤で大きく“転調”する。涼子の夫が中学生の娘・日向(ひなた)に虐待を続けていたことが発覚し、以後は涼子自身も夫から暴力を振るわれるようになるのだ。
DV(家庭内暴力)被害者となった2人は夫から逃れるために家を出て、涼子は教師を辞めざるを得なくなる。
そこからは、涼子と日向自身が「子どもの貧困」の当事者となり、生活保護を受ける。教師時代とは異なる視点から、「我が事」として問題を見つめるうち、涼子は自分の理解がまだ浅かったことを痛感する。そして、「子どもたちに背を向けているのは神様なんかじゃない/私だ……私たち大人だ」と、苦くつぶやくのだ。
「子どもの貧困」も、傍観者と当事者では“見える風景”が異なる――作者がこの問題を深く思索し続けたからこそ生まれた、重層的描写といえよう。
また、母子家庭となった涼子と日向の、戸惑いや苦しみ、喜びなどの繊細な描写には、離婚してシングルマザーとして子どもを育て上げたという、さいきさん自身の体験が投影されているのだろう。
読むのがつらい場面もある『神様の背中』だが、終盤の展開は明るい希望を感じさせるものだ。
日向は、塾に行けない生活保護世帯の子どもを対象とした、NPO法人主催の無料学習会に通い始める。そのことが、日向と涼子にとって転機となる。「子どもの貧困」対策の知識やネットワークも豊富なそのNPOの人々は、日向に勉強のみならずさまざまなことを教え、光ある方向へと導いていくのだ。
放っておけば親から子へと伝わっていく、「貧困の連鎖(=貧困の世代間再生産)」。それを断ち切るための方途を、作者は涼子や日向たちの姿を通して探っている。日本に広がる「子どもの貧困」の闇を描きながら、最後に希望の光を提示するマンガなのだ。ゆえに、読後感はあたたかい。