公明党トップ / 実績 / 大衆の幸せのために生まれた党 公明党
実績/公明党が実現してきたこと
大衆の幸せのために生まれた党 公明党
- 力道山などプロレスブーム、太陽族の登場、洋画「ローマの休日」がヒット
- 1954
-
- 1954年11月22日 創価学会文化部が設置
- 翌55年4月に行われた統一地方選挙、翌56年7月の参院通常選挙に出馬。
参院大阪地方区の白木義一郎は、社会党現職や自民党元職を打ち破って3位当選。「“まさか”が実現」(「朝日」56年7月9日付大阪版夕刊)と大きな注目を浴びた。
- うたごえ喫茶登場、女子バレー「東洋の魔女」、人類初の宇宙飛行士ガガーリン「地球は青かった」
- 1961
-
- 1961年11月27日 公明政治連盟が結成
- アニメ「鉄腕アトム」放送開始、ケネディ大統領暗殺、「こんにちは赤ちゃん」がヒット
- 1963
-
- 1963年 東京都の母子寮を総点検
- 公明都議が母子寮に行ってみると、6畳の部屋に母子家庭が3世帯、8畳の部屋には5世帯の母子が、ひと間をカーテンで仕切り、体を縮めるようにして生活をしていた。
これは、もはや母子寮ではない、収容施設ではないか。
それも一カ所だけでなく、東京の全部の母子寮がそうだった。
公明都議が訪れたある母子寮でのこと。
「この寮には八十人の幽霊がいるんです」。二百八十人住んでいるはずの寮に実際に住んでいたのは二百人。八十人分の予算がだれかのフトコロへと“消えて”いた。この事実も氷山の一角。
当時の都議会は圧倒的多数を誇る自民党と社会党とのなれ合いで宴会政治が横行していた。
都議会公明党は、母子寮のほか老人ホームなど福祉施設の総点検の先頭に立ち、議場では、舌鋒鋭く都の姿勢を追及。「福祉など政治を知らない素人がやること」との嘲笑をはねのけ、それまでないがしろにされてきた福祉を都民の手に引き戻した。
その闘いは、児童手当、老人福祉手当の支給、高齢者医療費の無料化などへと結実している。
引用:公明新聞1993/01/18
新宿区(定数4)/藤井富雄/<現>/頼れる確かな先見性/今だからこそ必要です!/’93〃東京決戦〃に挑む/都議選予定候補のプロフィル
- 東京オリンピック、王貞治55号ホームラン日本記録、邦画「愛と死を見つめて」がヒット
- 1964
-
- 1964年11月17日 公明党が結成
- 3億円強奪事件、ミニスカート大流行、アニメ「巨人の星」放送開始
- 1968
-
- 1968年5月 イタイイタイ病の公害病認定
- イタイイタイ病は大正以来、富山県の神通川流域で多発した病気で、骨が脆くなり、悪化すれば、せきをしただけで骨折した。
“風土病”“業病”と言われるなど偏見も強く、「痛い、痛い」と布団の中で嘆くしかない患者は、社会の片隅に置き去りにされていた。
原因は、上流の鉱山から大企業がタレ流す廃水に含まれたカドミウムだった。だが、それを告発した地元医師・萩野昇(故人)は、「あんな医者の言うことを信じたら、地元に嫁の来てがなくなる、米も売れなくなる」との批判を浴び、病院からは患者が去っていくばかりだった。大企業側が画策した陰湿な圧力だった。
67年(同42年)5月25日、萩野のもとを公明党参院議員の矢追秀彦(故人)が訪ねた。萩野がスライドで患者の悲痛な症状を説明すると、矢追の目に涙が光った。「こんな悲惨なことがあるか! これは公害だ。これを追及するのが私たち政治家の責任だ」と心に決めた。
翌26日、矢追は参院産業公害交通対策特別委員会で質問。初めてイタイイタイ病を取り上げ、政府の無為無策を追及したが、政府は「原因が分からない」の一点張りだった。
しかし、矢追らは一歩も退かなかった。公明党は本格調査を始めた。現地に何度も足を運び、患者の話を一人一人聞いて回った。その必死の姿に、地元の人々も次第に心を動かされていった。「おい、公明党の調査団を見たか?」「ああ、おれが見たときは、神通川の水を飲んでたぞ」――。
年末の12月6日には、小松ら患者代表3人が公明党の仲介で上京し、矢追と一緒に政府に救済対策を直訴するまでになっていた。
そして翌68年5月8日、厚生省は委託研究班(班長=重松逸造・国立公衆衛生院疫学部長(当時))の「(原因は)鉱業所の諸施設からの排出が主体」との最終結論をもとに、ついにイタイイタイ病を公害病と認定したのだった。
「厚生省(現厚生労働省)が『イタイイタイ病は公害』と断定しました」。1968年(昭和43年)5月8日、そのニュースは全国を駆けめぐった――。
富山県婦中町(現富山市)の萩野病院。待合室のテレビ前には、イタイイタイ病の患者らが集まっていた。ニュースが放送された瞬間、「わあっ!」と歓声がわいた。「今、ようやく光が差してきた感じですちゃ」。患者の中心的存在だった小松みよ(故人)は、そう言って安堵の表情を浮かべた。「ここまでこられたのも、公明党が国会で取り上げてくれたおかげですちゃ」
その後、同年9月には水俣病を公害病認定。72年(同47年)には、大企業側を訴えた裁判でイタイイタイ病患者らが全面勝訴した。
作家の有吉佐和子(故人)が環境問題を扱ったベストセラー長編小説『複合汚染』が75年(同50年)に出版され、同書には、こう記されていた。
「公害に最も大きい関心を寄せ、熱心に勉強し、実績をあげている政党は、どの革新政党よりも公明党だと、住民運動をしている人たちは口を揃えて言う」
- アポロ11号が人類初の月面着陸、大学紛争、パンタロン流行
- 1969
-
- 1969年 教科書の無償配布
- 「先生! この教科書いくらですか? わたし買います! みんなと同じように買いたいんです!」。そう言って詰め寄る少女の瞳は涙であふれていた――。
春、新学期。真新しい教科書を手にして喜ぶ小学生の中で、その少女だけが暗い顔をしていた。
少女の家は生活保護を受けており、教科書は国から特別に“支給”されていた。それが友達に知れ、「おうちが貧乏だから買えないんだって……」などといったヒソヒソ話がクラス中に広がってしまったのだ。
故・柏原ヤス参院議員は、かつて小学校の教員だった時代の出来事を思い出していた。
「おもちゃも、お菓子も、何もいらない。でも、教科書は自分で買いたい!」。少女は悔しくて、自宅にあった陶器製の貯金箱を壊して小銭を数えたが、数十円足りなかった。「これ教科書代です! 足りない分は、後で必ず払います。教科書を売ってください!」。必死に訴える少女の姿が柏原の目に焼き付いた。
「憲法では義務教育の無償をうたっている。せめて教科書代だけでも無料にしなければ……。あの娘のような、つらい思いを、二度と繰り返してはならない」。後に参院議員となる柏原にとって、決して忘れられない、胸痛む体験だった。
教科書無償配布実現への闘いは、56年(同31年)の国政初進出時から始まった。憲法は「義務教育の無償」を定めており、保護者の負担軽減を重要政策の一つに掲げたのだ。
国会質問では63年(同38年)1月の参院本会議で初めて取り上げた。そして、消極的だった政府に完全実施を決断させる“決定打”となったのが、3月13日の柏原質問だった。
「公明会を代表して質問いたします!」。凛とした姿で迫力のある声が議場に響き渡った。柏原は「何はさておいても中学3年までの教科書代を無償にすべきです!」と詰め寄った。場内からは「そうだっ!」との声援が数多く飛んだ。
首相は、ついに「憲法の理想を実現することに努め、昭和41年度までには義務教育の教科書を全部出したい」と明言したのだった。
その後、教科書無償配布は63年度(同38年度)から段階的に実施され、途中、政府の対応の遅れで、ようやく69年度(同44年度)に全小・中学校の児童・生徒を対象に完全実施された。
後日、柏原は、教員時代のあの少女から手紙を受け取っている。子を持つ母となり、教科書無償配布の実現を喜ぶ感謝の手紙だった。それは、「一人を大切にする政治」が参院公明の“原点”として結実した証しでもあった。
- あさま山荘事件、沖縄返還、札幌オリンピック
- 1972
-
- 1972年1月 児童手当を国の制度に
- 「私は刃物の研磨の仕事をしていますが、何しろ子どもが多いので出費が驚くほどかかります。前々から子どもたちに勉強机をせがまれ、買ってやることができませんでしたので、5カ月分の児童手当でさっそく購入しました。本当に助かりました」
「公明党は国の制度の実施を主張していますが、ぜひとも実現してほしい。これは全母親の念願だと思います」
公明党本部には連日、こうした喜びの声、庶民の願いが殺到した。
今、「児童手当と言えば公明党」との認識が広く定着した、その淵源は40年前にさかのぼる。
1967(昭和42)年12月の千葉県市川市議会定例会。「子どもたちの健全な育成のため、早急に実施すべきだ!」。公明党議員の凜たる声が響き渡った。公明党が、自治体独自の制度として児童手当導入の口火を切った瞬間だった。同じ頃、新潟県三条市でも市議会公明党の主張が市当局を動かしつつあった。
翌年4月、国に先駆けて両市は、第4子以降に月額1000円を支給する児童手当をいち早くスタートさせた。
これを機に児童手当の実現を求める公明党の取り組みは全国に波及。国会では68年、公明党が他党に先駆けて児童手当法案を提出。ついに72年1月、国の制度としての児童手当が実現した。
その後も政府は何度となく児童手当の縮小、廃止を画策した。だが、その度、公明党は児童手当の存続と拡充を訴え、制度を守り育ててきた。
99年、一大転機が訪れた。
2月18日、公明党幹事長の冬柴鉄三は自民幹事長との会談で「欧州の制度を参考に新児童手当制度を検討する」ことを自民に約束させた。
そして同年10月、公明党は連立政権に参画。政権合意書とともに交わされた政治・政策課題合意書に、政権与党の子育て支援策の柱として「児童手当の拡充」が明記されたのだった。
文中敬称略、肩書は当時
2007年1月12日付 公明新聞
- 1993
-
- 1993年 細川内閣が発足
- 1994
-
- 1994年 羽田内閣が発足 新進党が結党
- 新進党と地方議員中心の「公明」に分かれる
- 長野オリンピック、明石海峡大橋開通、洋画「タイタニック」がヒット
- 1998
-
- 1998年4月 さい帯血移植に保険適用
- 「大切な会合なんです。ぜひ来てほしいんです!」
1997年初夏、東京・永田町の参院議員会館。電話を受けた浜四津敏子の秘書は、名も知らぬ女性支持者の必死の申し出に、必ず浜四津に伝えることを約束した。受話器を置いた後、秘書はつぶやいた。「サ・イ・タ・イ・ケ・ツ……って何?」。実際、この時、「さい帯血」という言葉を知っている人が何人いただろうか。
7月19日、浜四津は、都内で開かれた「日本さい帯血バンク支援ボランティアの会」全国大会の会場にいた。ほぼ一日、ボランティアの活動報告や医大教授の講演などが続く“勉強会”だった。国会議員のための来賓席などなかった。浜四津は最前列に座り、ひたすらメモを取った。胸の議員バッジは外していた。
さい帯血とは、母親と赤ちゃんを結ぶへその緒(さい帯)と胎盤に含まれる血液。血液を造る細胞が骨髄液より多量に含まれ、これを移植すれば白血病などの難病治療に大きな効果がある。大会は、さい帯血移植の公的バンク設立や保険適用をめざす会合だった。
終了後、浜四津は代表の有田美智世に会った。「尊い活動ですね。ぜひ応援させてください」。浜四津は言った。だが、有田の反応は素っ気なかった。過去に他党に応援を求めたが、「頑張って!」とは言うものの、具体的な支援などなかったからだ。
しかし、浜四津の行動は素早かった。「女性局で公的さい帯血バンク設立と保険適用を求める署名運動を行いたい」と直ちに党中央幹事会で提案。党幹部全員が賛同した。「ボランティアの会」と公明党が手を携えた署名運動は全国に広がり、地方議会で意見書の可決も相次いだ。9月、小泉厚相(当時)に要請。10月、浜四津は国会質問で取り上げた。
翌98年1月、公明(参院議員と地方議員で構成)の代表に就いた浜四津は誓った。「私の政治生命を懸け、必ず実現させる」。署名運動はさらに拍車が掛かり、最終的に200万人を突破した。
そして4月、さい帯血移植への保険適用が実現。あの電話から1年も経っていなかった。予想外の展開に、有田は感動に声を詰まらせ浜四津に言った。「まさにウルトラCですね」。続いて99年8月に国が支援する「日本さい帯血バンクネットワーク」が設立。2000年4月には、さい帯血検査費への保険適用も実現した。
06年9月6日午前、秋篠宮妃紀子さまが男児を出産。心温まるニュースが全国を駆け巡った。「皇室初のさい帯血提供!」と。
その後、さい帯血は良質なiPs細胞を作り出すことがわかりました。iPS細胞とは、体のあらゆる細胞に変わる能力を持つ万能細胞です。難病の解明や新薬開発のほか、病気やけがで失われた臓器や組織などを回復する“夢の再生医療”への応用に大きな期待が寄せられています。
- シドニーオリンピック、三宅島噴火で全島民避難、2000円札が発行
- 2000
-
- 2000年5月 ストーカー規制法の成立
- 「追跡」「待ち伏せ」「嫌がらせ電話」など執ように女性らにつきまとうストーカー。
1999年に埼玉県桶川市で発生した桶川ストーカー殺人事件では、加害者から執拗なつきまとい行為や脅迫があったにもかかわらず、警察の対応の不備によって猪野夫妻の長女である詩織さんが刺殺されてしまった。
そして事件後、今度は無責任なマスコミの過熱報道被害に遭うことになる。
2013年11月。ストーカー被害の防止策などを話し合う有識者検討会は、警察庁で初会合を開いた。関係省庁担当者のほか、弁護士や大学教授、ストーカー規制法制定のきっかけとなった「桶川ストーカー殺人事件」被害者遺族の猪野憲一・京子さん夫妻らが出席した。被害者遺族が検討会に加わるのは異例のこと。
こうした反省を検討会の議論で生かすべく、公明党のストーカー規制法等改正検討プロジェクトチーム(PT、大口善徳座長=衆院議員)は、一貫して被害関係者を委員として参加させるよう要望。その結果、猪野夫妻は被害者支援を行うNPO法人「ヒューマニティ」の小早川明子理事長とともに被害者関係委員としてメンバーに入った。
一方で公明党は、成立(2000年)に尽力していたストーカー規制法の改正も強力に推進。2013年7月から、嫌がる相手に迷惑メールを繰り返し送る行為を取り締まりの対象とするなどの法改正を実現した。
「桶川事件」遺族の猪野憲一委員から感謝の声
被害者遺族が検討会に入るのは、私が知る限り初めてです。公明党の議員が「被害者の立場から意見を述べてほしい」と推してくれて本当に感謝しています。被害者側の考えをきちんと発言していきたいと思います。
ストーカー規制法は、私の娘が殺されたのがきっかけで生まれた法律です。最近また、悲惨な事件が発生していますが、そうした事件が起きないような法改正や警察の意識変革を進めたい。法律が変わっても警察の意識がそのままでは意味がないので、彼らにはあらためて国民を守る正義感、使命感を培ってもらいたいと考えています。
一方で、公明党にはこれからも、その先見性と的確な判断を生かして、正義の行動を貫いてほしい。また、ストーカー規制法のさらなる法改正にも積極的に動いてもらいたい。何しろ、同法を作り、13年後の初改正へと導いたのは公明党ですから。(公明新聞:2013年11月4日(月)付)
2016年のストーカー規制法の改正
この改正では、ツイッターやLINE(ライン)などのSNS上での嫌がらせを「つきまとい」行為として規制対象に追加。迅速で効果的に対応するため、加害者への警告なしで接近の禁止命令を出せるようにし、罰則も強化された。
- 2000
-
- 2000年10月 アレルギー対策 それは母の願い
- 「息子さんは、輪ゴムの束を15分間も握り続けたら死んでしまう」
8年の闘病の後、ようやく判明した診断結果は、ゴムアレルギーだった。
まぶたの内側もアトピーでごわごわに荒れ、掻くたびに瞳を傷つける。「このままでは失明する」と眼アレルギー専門医必死で探した。
横浜市在住の主婦・園部まり子さんの二男は、生後2カ月でアトピー性皮膚炎を発症した。食物アレルギー、ぜんそく、鼻炎・結膜炎と、症状は年々複合化し、重症化。診療所を転々と変えたが「医師が変われば診断も変わる」。医療不信は募るばかりだった。
まぶたの内側もアトピーでごわごわに荒れ、掻くたびに瞳を傷つける。「このままでは失明する」と必死で探した眼科医が、幸運にも、神奈川県内に3人だけという眼アレルギー専門医だった。
原因物質が判明し、治療を始めると、炎症は劇的に改善していった。
「原因が分からない、というのは恐ろしいこと。同じ悩みを抱える人たちに発信しなければ」。園部さんは1999年8月、「アレルギーを考える母の会」を結成、行政にかけ合った。だが、けんもほろろの対応だった。
「公明党なら受け止めてくれるかもしれない」 ── 園部さんはアレルギー対策に積極的な公明党に望みをかけ、地元選出の衆院議員・上田勇の事務所のドアをたたいた。
少ない専門医、不足する医療情報、のしかかる治療費……。8年間の思いが、堰を切って溢れ出た。上田は言った。「本腰で取り組みます」
上田は即刻、党代表代行の浜四津敏子と連携、党内にプロジェクトチームが設置された。上田は政府に質問主意書を提出し、「アレルギーの病態解明と治療法の確立を」と強く要請。翌2000年1月からは、浜四津を先頭に議員・党員一体でアレルギー対策の強化を求める署名運動がスタート。4月、森喜朗首相のもとに1464万人もの署名が届けられた。
この草の根の“声”が大きな追い風となり、関係予算が飛躍的に拡大。「臨床研究センター」や基礎研究の拠点「免疫・アレルギー科学総合研究センター」の開設など、対策が次々と結実していった。
「一婦人の訴えにも矢継ぎ早に手を打ってくれた。関係者の間では、今や『アレルギー対策なら公明党』が定評」。園部さんは言明する。
(文中敬称略、肩書は当時 2007年02月23日 公明新聞)
- アメリカ同時多発テロ、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン開業、邦画「千と千尋の神隠し」がヒット
- 2001
-
- 2001年6月 ハンセン病問題の全面解決
- 9歳でハンセン病を発病。その日、離島の療養所へ。
何年も「母に会いたい」と泣き暮らしたが、会えずじまい。亡くなったことさえ知らされなかった。
その後、同じ入所者と結婚。やがて子を宿すが、妊娠8カ月で強制的に早産させられ“殺された”。「小さいけど、元気な産声でした。自分の胸に抱きたかった。その時の泣き声が最初で最後。あの泣き声がいまだに耳から離れません」。想像を絶する話だった。
それまで赤ペンでメモを取っていた厚労相の坂口力の手が突然、止まった。坂口は泣いていた。── 2001年5月14日、ハンセン病国家賠償訴訟の原告団との面談で、元患者の老女が自らの半生を語った時の出来事だった。
坂口は元患者らに深々と頭を下げ、謝罪の意を表した。「誠に申し訳ない思いです」。そして心に誓った。「絶対に控訴すべきではない」と。
熊本地裁の「国が全面敗訴」の判決に対し、役所の意見は「控訴すべし」が大勢だった。自民党幹部からも「控訴後に和解」といった声が流されていた。
だが、坂口の「この裁判は終わらせるべきだ。元患者の皆さんに『大変だったが、生きていて良かった。最後は報われた』と思ってもらえる最後のチャンスではないか!」との思いは微動だにしなかった。
そして、運命の5月23日。その朝の毎日新聞1面には「坂口厚労相が辞意」という見出しが躍っていた。それには坂口自身が驚かされたが、官邸に向かう車中の坂口の胸ポケットには、この朝認めたばかりの「辞表」が用意されていた。
朝9時、官邸で官房長官の福田康夫が言った。「改めて、お考えを聞きたい」。坂口が答えた。「控訴には絶対に反対です」。福田「それは、厚労省の考えですか?」。「官僚たちの考えは別です」と坂口。福田が重ねて聞いた。「大臣の考えと、官僚の考えと、どちらが厚労省の意見ですか?」。坂口は毅然として言い放った。「私が厚生労働大臣です。私の考えが厚労省の意見です」
首相の小泉が原告団に面談したのは夕刻。その直後、政府は見解を発表した。「控訴せず」と。
後日、財務相の塩川正十郎は、坂口に語った。「あの朝刊の1面記事は、首相には、ものすごいパンチだったよ」
「控訴せず」の政府決定を受けて6月1日、坂口は改めて原告団代表に会い、正式謝罪した。その後、坂口と厚労副大臣の桝屋敬悟(公明党)らは手分けして全療養所施設を訪問し謝罪した。
後に、坂口は語った。
「政治家は、自分を犠牲にする覚悟があって初めてできる職業。好きでやっている人がいるとすれば、それは政治屋である。そして、私は政治家である前に、一人の人間であり、医師である」
文中敬称略、肩書は当時 2007年2月9日付 公明新聞
- 東日本大震災発生、地上デジタル放送に完全移行、サッカー日本女子代表がFIFAワールドカップで初優勝
- 2011
-
- 2011年6月 B型肝炎患者とともに
- なぜ自分はB型肝炎に感染したのか――。
母親に幼少期のことを尋ねてみたものの、思い当たるのは幼児期の予防接種のみ。
仕事を辞め、恋人もいたが、将来に責任が持てないと伝え、結婚もあきらめた。
乳幼児期の集団予防接種で、注射器を連続使用したことが原因でB型肝炎ウイルスに感染したとして、患者や遺族が国に損害賠償を求めているB型肝炎訴訟で、札幌地裁は2011年1月11日、無症状の感染者(キャリアー)へも、50万円を支払うなどとする和解案を提示した。
これを受けて政府は14日、関係閣僚会議を開き、今後の対応を協議。和解案を「重く受け止め、基本的に前向きに対応を検討していく」ことを確認。全員救済に向け、事態は大きく動き出した。
和解案について公明党の山口那津男代表は12日、政府に対し「患者の救済を大目的に、早期の解決を」と決断を促し、立法府の立場でも救済策を前向きに検討する考えを表明。一貫して患者救済を最優先に対応するよう訴えてきた。
肝炎は感染者が350万人とされ、「国内最大の感染症」といわれる。肝がんや肝硬変へと進行する疾病でもあり、原告らは一刻も早い訴訟解決を熱望している。
2010年5月から和解協議が続けられてきたが、キャリアーへの一時金支払いを拒否する政府の姿勢が「和解交渉の最大の支障」(原告団の谷口三枝子代表)となり、交渉は遅々として進まなかった。
そこで原告団は、公明党と度々意見交換を重ね、全員救済への協力を強く要請。2010年5月の会合では、匿名原告の女性がハンセン病訴訟の解決で果たした公明党の役割を振り返り、「大事な局面で力を発揮した」との声が上がるなど、B型肝炎訴訟でも公明党の役割に大きな期待が寄せられていた。
こうした原告団の思いを受け、党肝炎対策プロジェクトチーム(赤松正雄座長=衆院議員)の古屋範子衆院議員、渡辺孝男参院議員らは2010年12月、超党派の議員とともに政府へ要望書を提出し、早期の全員救済を改めて求めていた。
このほか公明党は、2009年11月の肝炎対策基本法の成立もリード。患者が治療に専念できる環境づくりを強力に推進してきた。
文中敬称略、肩書は当時
2011年1月15日付 公明新聞
- 東京スカイツリーが開業、ロンドンオリンピック開催
- 2012
-
- 2012年8月 カネミ油症初の救済法成立
- 「美容と健康に良くて安い」。
そんな宣伝文句に誘われ、カネミ倉庫製の米ぬか油を口にした被害者は、がんや内臓疾患、赤ちゃんの死産などに襲われていた。
病苦と生活苦にあえぐ被害者とその家族は、わらをもつかむような思いで助けを求めていた。
カネミ油症事件。それは、西日本一帯を中心に約1万4000人が被害に苦しめられた、わが国最大にして空前の食品公害事件である。油症発覚から44年、被害者の悲願であった公的救済が2012年8月、ついに立法化された。その背景には、事件発生直後から被害者に寄り添って奮闘してきた公明党の闘いのドラマがあった。
1968年10月15日、事態を重く見た公明党は、原因究明に向け直ちに動いた。参院議員の原田立、内田善利らは問題の油を鑑定した久留米大学医学部教授から事情を聴取。翌16日には、衆院議員の田中昭二らが九州大学の油症研究班を緊急訪問したほか、公明党は各地方議会でも被害の実態調査に乗り出した。
被害者の援護対策など政府の対応が進まない中、公明党は72年7月と75年1月、被害が集中した長崎県五島列島などに参院議員の小平芳平を団長とする党カネミ油症調査団を派遣し、被害者の病状経過など聞き取り調査を実施した。
公明党は徹底した調査を基に、国会で再三にわたり被害者の救済を迫った。
坂口答弁が突破口開く
その後も政府による救済策は遅々として進まず被害者は絶望のふちで長い年月を過ごした。だが公明党が連立政権に参画したことにより、被害者救済への流れが一気に加速する。
事件は長い間、ポリ塩化ビフェニール(PCB)の混入が原因とされ、PCB汚染の診断基準が用いられてきた。しかしPCBより、はるかに毒性の強いダイオキシン類のポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)が主因だとわかり、2001年12月の国会質疑では、公明党参院議員の山下栄一が、「ダイオキシンに対応した基準に見直すべき」と主張。厚生労働相の坂口力(公明党)がこれを公式に認め、油症対策の前進につながる突破口が開かれた。忘れられかけていた「油症」に、再び光が当たった瞬間だった。
下級審判決を受け国が被害者に支払った仮払金をめぐる返還問題についても、公明党の強力な推進で07年6月、返還免除の特例法が成立した。そして、12年8月29日。坂口が会長を務める超党派の国会議員連盟がまとめたカネミ油症救済法が、参院本会議で全会一致で可決、成立。健康実態調査への協力金などで年24万円が支給されることになった。
民主、法制化断念へ
法制化への道のりは険しかった。それは、かたくなともいえる国の姿勢にあった。
「国に責任はないのに税金を投入できない」「ほかの食中毒も国が救済しなければならなくなる」。こうした国の抵抗に民主党が法制化を断念する姿勢を示し、法案は一時、宙に浮く。だが坂口らは救済法を強く望む被害者のため、一歩も引かなかった。坂口は「将来にわたり確実に実施されるよう法律で担保すべきだ」と訴え、立法化にこぎつけた。
油症44年を顧みて
認定患者で被害者救済運動の先頭に立った矢野トヨコ(2008年死去、享年86歳)の夫で油症医療恒久救済対策協議会会長の矢野忠義(80)。長きにわたり公明党に被害の実態を訴え続けた。油症44年を顧みて、矢野は言う。「公明党の尽力がなかったら、被害者の政治救済の実現はなかっただろう」
救済法成立を見届けた矢野は8月29日夕、衆院議員会館に坂口を訪ねた。矢野の謝意に対し、坂口は答えた。「みなさんの闘いが、周りを動かしたんですよ」。そしてこう続けた。「これで亡きトヨコさんとの約束は、すべて果たすことができました」
矢野は帰宅後、真っ先にトヨコの霊前に端座し、線香を手向けた。「公明党を信じ、救済の一切を託してよかった」。一筋の涙が矢野の頬を伝わった。
文中敬称略、肩書は当時
2012年11月6日付 公明新聞