臍帯血移植は、21世紀に向かって歩き出した新しい医療です。この臍帯血移植を日本に導入させた力は、「善意」と「善意」で結ばれた女性たちのネットワークでした。
臍帯血が白血病などの病気を治すことを、有田美智世さん(当時、「日本臍帯血バンク支援ボランティアの会」代表)が知ったのは、今から20数年前のこと。「こんなに素晴らしいものなのに、日本ではなぜ私たちの医療のために役立てられないのか」と、有田さんは日本への導入のために臍帯血移植への保険適用、公的バンク設立を目指して草の根の署名運動を開始。ところが製薬会社や権威ある医者、官僚たちからの激しい妨害に遭い、なかなか運動が前に進みません。
そんな時、有田さんはニューヨークの臍帯血バンクを視察し、あらためて臍帯血移植導入の決意を固めます。「これはもう急がなければいけない」。しかし「まずだれに訴えようか」と悩みました。マスコミは権威に弱く、あてにできないと思ったからです。
そこで有田さんは、若いお母さんたちのグループに働き掛けてネットワークをつくり、10万人署名など厚生省(当時)に働き掛けるさまざまな運動を行っていきました。
そんな中、東京・東村山市の幼稚園のお母さんたちのグループとの出会いが。彼女たちも「臍帯血移植を推進しよう」と運動に立ち上がってくれました。これが、公明党との出合いに結び付いていくのです。
1997年7月19日、東京で日本臍帯血バンク支援ボランティアの会の第1回全国大会が開かれました。この大会に公明の浜四津敏子参院議員(当時)が参加。浜四津さんは「私たちも全力で応援します」と約束しましたが、有田さんは「リップサービスではないか」と、冷やかに受け止めていました。それほど政治家への不信が強かったのです。
しかし、多くの団体が署名運動に参加する中、公明党女性局も署名に立ち上がり、全国各地で公明議員や支持者が臍帯血移植推進の応援に入りました。
多くの医師たちや厚生省は全く冷ややかでした。しかし、公明党女性局の応援により、何と50万人もの署名が集まったのです。有田さんが「自分に一番遠いところにある」と思っていた公明党に信頼を寄せるきっかけでした。
そんな中、心ある医学者たちが力になり、東京に公的臍帯血バンクのモデルとなる「東京臍帯血バンク」がつくられました。「(臍帯血移植の推進を)絶対やらない」と言っていた厚生省も、臍帯血移植検討会を開くことに。
署名は220万を超え、地方議会からの意見書も、公明党議員が各会派を説得して、441議会から提出。こうした運動が実って、98年4月、臍帯血移植術に対する医療保険の適用がついに実現したのです。
99年8月には、長年の念願であった公的臍帯血バンクが国の支援で立ち上がりました。東京、兵庫、北海道など、全国8カ所のネットワークです(2011年7月現在は10カ所)。