対談

私たちは臍帯血で命を救われました!

三浦智美さん×矢部義雄さん

「新しい命がもう一つの命を救う」の言葉の通り、臍帯血移植によって命が救われたという患者さんが年々、増えています。
今日は臍帯血移植を受け、順調に回復に向かっているお二人にさまざまな体験について語り合ってもらいました。
矢部義雄さん(仮名、40代男性)は東京都在住。2005年に骨髄異形成症候群(MDS)を発症。
三浦智美さん(仮名、20代女性)は東京都在住。2009年に急性骨髄性白血病(M1)を発症。
それぞれ臍帯血移植を受け、厳しい闘病を経て現在、元気に生活をされています。

余命半年と言われて

臍帯血移植で命が助けられた二人の対談ということで、感無量なものを感じます。
本当ですね。それぞれがこの臍帯血移植という治療法に出会わなかったら、実現することがなかった、と思うと不思議な感覚です。
三浦さんが病気を告げられた時の心境は?
震えがこみ上げるような恐怖と衝撃でした。即座に入院が指示され、翌日から抗がん剤治療開始と、目まぐるしい急展開でした。
よく理解できます。私も頭が真っ白になり、メモを取りながらも何か他人事かのように医師の言葉を聞いていました。

自覚症状としては病気が分かる前から動悸や倦怠感、皮下出血があり、おかしいなという感覚がありましたが、白血病とは想像すらできませんでした。
私の場合は全く無自覚でした。病気がわかる直前まで、往復50キロの自転車通勤をしていたくらいですから。むしろ体力には自信があったので。
自転車通勤ですか。それでは確かに病気とはある意味、無縁な……。
そうなんです。病気が分かったきっかけは職場の健康診断でしたが、実はその日から出張が入っており、飛行機の時間が迫っていたので、パスしようと思っていたんです。でも、1分で済む血液検査だけでもやっておこうと思い、血液だけとってもらって、職場を飛び出したのをよく覚えています。
もしその検査をしていなかったら?
発見の機会は1年後の健康診断までなかったと思います。でも、そのころには確実に死んでしまっていたでしょうね。入院した時点で、無治療の場合、余命半年と言われましたから。
私は初めにかかったのが職場の近くの内科でした。血液検査を見た医師がすぐにT病院に行きなさい、とかなり切羽詰った感じで言われまして。

ドナーがすぐに確保できた!

最初から臍帯血移植の選択だったのですか、それとも骨髄移植という選択肢もあったのでしょうか。
入院当初は、移植をせず抗がん剤による寛解を目指すという見立てでした。しかし、思うように白血球が立ち上がってこず、急遽、移植が必要ということになったんです。
兄の骨髄のHLAの型が合わず、骨髄バンクにドナーを求めることも考えられたのですが、移植ができるまで最低3カ月はかかることがわかり、とても間に合わないと。それでドナーが即座に確保できる臍帯血に、ということになりました。
なるほど。私もほぼ同様な経過で臍帯血移植にたどりつきました。当時はまだ、実績的にはまだ骨髄移植が圧倒的に豊富で、最初にかかった病院の医師は「臍帯血移植は大人にはまだ勧めることはできない」と否定的でした。しかし、骨髄のドナーが見つからない以上、臍帯血に可能性をかけるしかすべはありませんでした。
臍帯血が自分の体に入っていく瞬間、どのような思いが浮かびましたか。私は拒絶反応が起こらないように必死に祈っていました。

私の体に挿入された臍帯血は宮城臍帯血バンクの男の赤ちゃんのものでした。「頼むぞ、君とこれから苦楽をともに一生ともにしていくんだからな」と会ったことのない赤ちゃんに語りかけました。生着(造血細胞が血球を作り始める)までには何日かかりましたか。
移植から17日目に白血球が1000を超え、生着したと医師から告げられました。平均的日数の21日目には3000近くまで増えていました。
私の場合、ちょうど平均の21日目でした。体のきつさはピークでしたが、涙が出るほどうれしかったです。
三浦さんは入院中で最もつらいと思ったことは何でしたか。
40度以上の高熱、嘔吐、下痢等、とにかく何もかもがつらく、眠れなかったことです。それから食事が全くとれず、栄養摂取はすべて点滴からでした。クリーンルームを出て、久しぶりに食事をした時、砂を食べているのかとびっくりしました。
おかゆが砂のように感じたというのは私も同じです。この感覚がもし治らなかったらどうなるんだろうと、この時ばかりは絶望感に襲われました。
ところで矢部さんが昨年で無事、完治の5年を迎えることができたのは本当に素晴らしいことです。私は5年までの道のりはまだ先が長いので、再発という不安は常につきまといます。

救われた命で多くの人を救いたい

三浦さんは私より数倍、回復が早いので絶対に大丈夫だと思います。むしろこれからの気持ちの支えが重要になってくると思います。
これまでもたくさんの方々の励ましで今の私があります。本当に感謝しています。そして何より、今抱いている希望は完治して両親を心から安心させてあげることです。
私も家族をはじめ、多くの皆さんに支えてもらったことを日々かみ締めながら生きています。とりわけ、臍帯血移植への道を開いてくれた公明党の皆さまには感謝の念に耐えません。
病気になるまで、公明党が臍帯血移植の保険適用やバンクの体制整備に深くかかわり、推進してきたことを知りませんでした。その道のりは大変な困難の連続だったと聞いています。一人ひとりの切実な思いに真剣に耳を傾ける公明党だからこそ、臍帯血移植を代表的な血液疾患の治療法へと押し上げることができたに違いありません。命を救われたその一人がここにいる私です。
私は発病から2年半で職場復帰することができました。同僚や先輩、後輩が待つ職場に戻れた時のうれしさ、一生忘れないと思います。
三浦さんの今後の抱負を聞かせてください。
病気の経験を生かせる仕事に就きたいと思い看護師を目指しています。今春から看護学校に通うことになりました。
それは素晴らしい志ですね。ぜひともその目標を達成し、多くの人を命を救っていってほしいです。
きょうはありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。

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