ハンセン病問題の全面解決

「最後は報われた」の思いを
「辞表」胸に首相官邸へ「控訴せず」貫いた厚労相


菊池恵楓園を訪れ、隔離政策の象徴「望郷の窓」などを視察した坂口副代表ら=2005年6月20日 熊本県合志町

それまで赤ペンでメモを取っていた厚労相の坂口力の手が突然、止まった。坂口は泣いていた。――2001年5月14日、ハンセン病国家賠償訴訟の原告団との面談で、元患者の老女が自らの半生を語った時の出来事だった。

9歳で発病。その日、離島の療養所へ。何年も「母に会いたい」と泣き暮らしたが、会えずじまい。亡くなったことさえ知らされなかった。

ハンセン病問題の全面解決への流れ 2001年5月11日:熊本地裁で国の敗訴判決 2001年5月14日:坂口厚労相が原告団と面会し謝罪表明 2001年5月17日:神崎代表ら、控訴断念を政府に申し入れ 2001年5月23日:毎日新聞朝刊「坂口厚労相が辞意」と報道。夕刻、小泉首相が原告団と面会。直後に政府として控訴しないと発表 2001年6月1日:坂口厚労相、省内で原告団代表に正式に謝罪 2001年6月7、8日:衆参両院の本会議で、ハンセン病問題に関する国会決議を全会一致で採択 2001年6月15日:ハンセン病補償法が成立 2001年7月23日:原告と国側が和解に関する基本合意書に調印 2002年1月30日:非入所者・遺族との和解が成立、ハンセン病問題の司法上の全面解決

その後、同じ入所者と結婚。やがて子を宿すが、妊娠8カ月で強制的に早産させられ“殺された”。「小さいけど、元気な産声でした。自分の胸に抱きたかった。その時の泣き声が最初で最後。あの泣き声がいまだに耳から離れません」。想像を絶する話だった。

坂口は元患者らに深々と頭を下げ、謝罪の意を表した。「誠に申し訳ない思いです」。そして心に誓った。「絶対に控訴すべきではない」と。

熊本地裁の「国が全面敗訴」の判決に対し、役所の意見は「控訴すべし」が大勢だった。自民党幹部からも「控訴後に和解」といった声が流されていた。

だが、坂口の「この裁判は終わらせるべきだ。元患者の皆さんに『大変だったが、生きていて良かった。最後は報われた』と思ってもらえる最後のチャンスではないか!」との思いは微動だにしなかった。

そして、運命の5月23日。その朝の毎日新聞1面には「坂口厚労相が辞意」という見出しが躍っていた。それには坂口自身が驚かされたが、官邸に向かう車中の坂口の胸ポケットには、この朝認めたばかりの「辞表」が用意されていた。

朝9時、官邸で官房長官の福田康夫が言った。「改めて、お考えを聞きたい」。坂口が答えた。「控訴には絶対に反対です」。福田「それは、厚労省の考えですか?」。「官僚たちの考えは別です」と坂口。福田が重ねて聞いた。「大臣の考えと、官僚の考えと、どちらが厚労省の意見ですか?」。坂口は毅然として言い放った。「私が厚生労働大臣です。私の考えが厚労省の意見です」

首相の小泉が原告団に面談したのは夕刻。その直後、政府は見解を発表した。「控訴せず」と。

後日、財務相の塩川正十郎は、坂口に語った。「あの朝刊の1面記事は、首相には、ものすごいパンチだったよ」

「控訴せず」の政府決定を受けて6月1日、坂口は改めて原告団代表に会い、正式謝罪した。その後、坂口と厚労副大臣の桝屋敬悟(公明党)らは手分けして全療養所施設を訪問し謝罪した。

後に、坂口は語った。

「政治家は、自分を犠牲にする覚悟があって初めてできる職業。好きでやっている人がいるとすれば、それは政治屋である。そして、私は政治家である前に、一人の人間であり、医師である」

文中敬称略、肩書は当時
2007年2月9日付 公明新聞