イタイイタイ病の公害病認定

大企業と行政の壁に阻まれ社会の片隅に追われた患者たちを救った公明党


公害病認定を伝えるテレビニュースに喜ぶ患者ら。前列右から3人目が故・小松みよさん=1968年5月8日 萩野病院待合室(富山県)

「厚生省(現厚生労働省)が『イタイイタイ病は公害』と断定しました」。1968年(昭和43年)5月8日、そのニュースは全国を駆けめぐった――。

富山県婦中町(現富山市)の萩野病院。待合室のテレビ前には、イタイイタイ病の患者らが集まっていた。ニュースが放送された瞬間、「わあっ!」と歓声がわいた。「今、ようやく光が差してきた感じですちゃ」。患者の中心的存在だった小松みよ(故人)は、そう言って安堵の表情を浮かべた。「ここまでこられたのも、公明党が国会で取り上げてくれたおかげですちゃ」


国会で初めてイタイイタイ病を取り上げ、政府を追及する故・矢追議員=1967年 参院産業公害交通特委

イタイイタイ病は大正以来、富山県の神通川流域で多発した病気で、骨が脆くなり、悪化すれば、せきをしただけで骨折した。“風土病”“業病”と言われるなど偏見も強く、「痛い、痛い」と布団の中で嘆くしかない患者は、社会の片隅に置き去りにされていた。

原因は、上流の鉱山から大企業がタレ流す廃水に含まれたカドミウムだった。だが、それを告発した地元医師・萩野昇(故人)は、「あんな医者の言うことを信じたら、地元に嫁の来てがなくなる、米も売れなくなる」との批判を浴び、病院からは患者が去っていくばかりだった。大企業側が画策した陰湿な圧力だった。

67年(同42年)5月25日、萩野のもとを公明党参院議員の矢追秀彦(故人)が訪ねた。萩野がスライドで患者の悲痛な症状を説明すると、矢追の目に涙が光った。「こんな悲惨なことがあるか! これは公害だ。これを追及するのが私たち政治家の責任だ」と心に決めた。

翌26日、矢追は参院産業公害交通対策特別委員会で質問。初めてイタイイタイ病を取り上げ、政府の無為無策を追及したが、政府は「原因が分からない」の一点張りだった。

しかし、矢追らは一歩も退かなかった。公明党は本格調査を始めた。現地に何度も足を運び、患者の話を一人一人聞いて回った。その必死の姿に、地元の人々も次第に心を動かされていった。「おい、公明党の調査団を見たか?」「ああ、おれが見たときは、神通川の水を飲んでたぞ」――。

年末の12月6日には、小松ら患者代表3人が公明党の仲介で上京し、矢追と一緒に政府に救済対策を直訴するまでになっていた。

そして翌68年5月8日、厚生省は委託研究班(班長=重松逸造・国立公衆衛生院疫学部長(当時))の「(原因は)鉱業所の諸施設からの排出が主体」との最終結論をもとに、ついにイタイイタイ病を公害病と認定したのだった。

その後、同年9月には水俣病を公害病認定。72年(同47年)には、大企業側を訴えた裁判でイタイイタイ病患者らが全面勝訴した。

作家の有吉佐和子(故人)が環境問題を扱ったベストセラー長編小説『複合汚染』が75年(同50年)に出版され、同書には、こう記されていた。

「公害に最も大きい関心を寄せ、熱心に勉強し、実績をあげている政党は、どの革新政党よりも公明党だと、住民運動をしている人たちは口を揃えて言う」

証言 認定が全面勝訴を後押し 命と環境を大事にする党

当時の関係者らに今回、改めて証言してもらった。

裁判を闘った高木良信・イタイイタイ病対策協議会副会長

私たち患者、遺族らは1968年3月、原因企業の提訴に踏み切りました。それは「その企業は100人を超える国会議員に影響力を持っている」とうわさされる中、裁判に負ければ、土地を追われることも覚悟しての決断でした。

そんな私たちの取り組みに対し、公明党の故・矢追議員の国会質問がきっかけとなり、全国的な支援が広がり、提訴2カ月後の5月8日に「公害病」と認定されました。強大な企業との裁判闘争のさなか、国が認定したという事実が一番の力になり、全面勝訴への大きな後押しになりました。

厚生省委託研究班の班長だった重松逸造・放射線影響研究所名誉顧問

より早く運動が広がっていた水俣病などよりも先に、イタイイタイ病が「公害病」に認定されたのは、公明党の尽力にほかなりません。

現地に入って原因究明に当たる中、私自身も公明党議員が現場に深く入り込んで調査活動を行っていたことをよく耳にしました。私たち研究班は当時、そのことを心強く思っていたことを今も覚えています。

神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会の高木勲寛代表

当時はイタイイタイ病の「公害病」認定に、また最近では2012年春に整備予定の県立イタイイタイ病資料館の設置構想に対し、公明党には、私たち被害者の側に立って支え続けていただきました。

この中で私は、公明党が一貫して「命と環境を大事にする」という主義主張を貫いていることに感銘を受けた次第です。

文中敬称略、肩書は当時
2010年06月10日付 公明新聞