教科書無償配布

小学1年~中学3年までの「完全実施」の実現は公明の質問が“決定打”だった


無償の教科書をもらう子どもたち(1967年9月8日 千葉県船橋市立塚田小学校)

「41年度には完全実施 首相『教科書無償』で答弁」(読売)。1963年(昭和38年)3月13日の新聞各紙の夕刊1面には、大きな見出しが躍っていた。その日午前、参院公明(当時は公明会)の柏原ヤス(故人)が本会議で教科書無償配布の完全実施を迫り、首相の池田勇人に決断させたことを報じた記事だった。

当初、「段階的な実施」という“小出し”で逃げていた政府が、小学1年から中学3年までの教科書無償配布を「首相が政府全体の方針として言明したのははじめて」(朝日)だった。


次代を担う子どもたちの笑顔のために闘った故・柏原参院議員(1964年10月 都内)

これらの新聞を読み終えた柏原は、かつて小学校の教員だった時代の出来事を思い出していた。

「先生! この教科書いくらですか? わたし買います! みんなと同じように買いたいんです!」。そう言って詰め寄る少女の瞳は涙であふれていた――。

春、新学期。真新しい教科書を手にして喜ぶ小学生の中で、その少女だけが暗い顔をしていた。少女の家は生活保護を受けており、教科書は国から特別に“支給”されていた。ところが、それが友達に知れ、「おうちが貧乏だから買えないんだって……」などといったヒソヒソ話がクラス中に広がってしまったのだ。

「おもちゃも、お菓子も、何もいらない。でも、教科書は自分で買いたい!」。少女は悔しくて、自宅にあった陶器製の貯金箱を壊して小銭を数えたが、数十円足りなかった。「これ教科書代です! 足りない分は、後で必ず払います。教科書を売ってください!」。必死に訴える少女の姿が柏原の目に焼き付いた。

「憲法では義務教育の無償をうたっている。せめて教科書代だけでも無料にしなければ……。あの娘のような、つらい思いを、二度と繰り返してはならない」。後に参院議員となる柏原にとって、決して忘れられない、胸痛む体験だった。

教科書無償配布実現への闘いは、56年(同31年)の国政初進出時から始まった。憲法は「義務教育の無償」を定めており、保護者の負担軽減を重要政策の一つに掲げたのだ。

国会質問では63年(同38年)1月の参院本会議で初めて取り上げた。そして、消極的だった政府に完全実施を決断させる“決定打”となったのが、3月13日の柏原質問だった。

「公明会を代表して質問いたします!」。凛とした姿で迫力のある声が議場に響き渡った。柏原は「何はさておいても中学3年までの教科書代を無償にすべきです!」と詰め寄った。場内からは「そうだっ!」との声援が数多く飛んだ。

首相は、ついに「憲法の理想を実現することに努め、昭和41年度までには義務教育の教科書を全部出したい」と明言したのだった。

その後、教科書無償配布は63年度(同38年度)から段階的に実施され、途中、政府の対応の遅れで、ようやく69年度(同44年度)に全小・中学校の児童・生徒を対象に完全実施された。

後日、柏原は、教員時代のあの少女から手紙を受け取っている。子を持つ母となり、教科書無償配布の実現を喜ぶ感謝の手紙だった。それは、「一人を大切にする政治」が参院公明の“原点”として結実した証しでもあった。

昔も今も、公明党は地方と 国を結ぶネットワーク政党

1963年度(昭和38年度)から段階的にスタートした教科書無償配布は、翌64年度(同39年度)時点で「小学1年~同3年」が対象だった。当然、小学4年以上の子を持つ保護者は、引き続き“出費”を余儀なくされた。こうした中、国政段階の取り組みに呼応して、地方議会公明党も必死の闘いを展開した。

以前は炭鉱で栄えた北海道歌志内市――。60年代前半から廃鉱が相次ぎ、人口が急減していた。収入の少ない“ヤマ”の人たちには、教科書代などの教育費負担が重くのしかかっていた。

「国の施策で恩恵を受けられない家庭には、市が独自に光を当てるべきだ」。一人の公明党市議が立ち上がった。無償配布の必要性を市長や他の市議に説いて回った結果、市は64年度(同39年度)から、独自に「小学4年~中学3年」を対象に加え、教科書無償配布の完全実施を国に先駆けて実現したのだった。しかも、こうした動きは地方議会公明党の力で各地に広がり、埼玉県の所沢、川口、大宮(当時)の各市、東京都東村山市、大阪府泉大津市なども、相次いで独自に対象年齢を拡大していった。

公明党の前身である公明政治連盟(公政連)は、61年(同36年)に結成され、参院議員9人と地方議員270人超でスタートした。そして64年(同39年)の公明党結成時には、国会・地方議会で1200人を超える議員を擁し、既に“ネットワーク”政党としての機能を存分に発揮していたのである。

文中敬称略、肩書は当時
2010年06月05日付 公明新聞