アレルギー対策
一婦人の“声”受け止めて
治療体制確立へ矢継ぎ早の手だて
署名運動を行う浜四津代表代行ら=2000年1月(上)。花粉症やアトピーの原因究明の現場も視察=2004年5月(下)
「息子さんは、輪ゴムの束を15分間も握り続けたら死んでしまう」――8年の闘病の後、ようやく判明した診断結果は、ゴムアレルギーだった。
横浜市在住の主婦・園部まり子さんの二男は、生後2カ月でアトピー性皮膚炎を発症した。食物アレルギー、ぜんそく、鼻炎・結膜炎と、症状は年々複合化し、重症化。診療所を転々と変えたが「医師が変われば診断も変わる」。医療不信は募るばかりだった。
まぶたの内側もアトピーでごわごわに荒れ、掻くたびに瞳を傷つける。「このままでは失明する」と必死で探した眼科医が、幸運にも、神奈川県内に3人だけという眼アレルギー専門医だった。
原因物質が判明し、治療を始めると、炎症は劇的に改善していった。
「原因が分からない、というのは恐ろしいこと。同じ悩みを抱える人たちに発信しなければ」。園部さんは1999年8月、「アレルギーを考える母の会」を結成、行政にかけ合った。だが、けんもほろろの対応だった。
「公明党なら受け止めてくれるかもしれない」――園部さんはアレルギー対策に積極的な公明党に望みをかけ、地元選出の衆院議員・上田勇の事務所のドアをたたいた。
少ない専門医、不足する医療情報、のしかかる治療費……。8年間の思いが、堰を切って溢れ出た。上田は言った。「本腰で取り組みます」
上田は即刻、党代表代行の浜四津敏子と連携、党内にプロジェクトチームが設置された。上田は政府に質問主意書を提出し、「アレルギーの病態解明と治療法の確立を」と強く要請。翌2000年1月からは、浜四津を先頭に議員・党員一体でアレルギー対策の強化を求める署名運動がスタート。4月、森喜朗首相のもとに1464万人もの署名が届けられた。
この草の根の“声”が大きな追い風となり、関係予算が飛躍的に拡大。「臨床研究センター」や基礎研究の拠点「免疫・アレルギー科学総合研究センター」の開設など、対策が次々と結実していった。
BSE(牛海綿状脳症)問題を機に動物由来の薬品の安全規制が強化され、製薬会社が02年3月末で主要なアレルギー診断薬の製造を断念せざるを得なくなった時も、動いたのは公明党だった。
長く免疫研究に従事してきた衆院議員・江田康幸が「診断薬なしに正しいアレルギー治療はあり得ない!」と、厚労省、日本アレルギー学会、薬品メーカーの3者協議をセットし、新たな安全性の確保策を確認。医療現場で品切れ寸前となった8月末に、診断薬の供給再開を実現に導いた。
「ぎりぎり間に合った」。関係者は一様に胸をなで下ろした。
「一婦人の訴えにも矢継ぎ早に手を打ってくれた。関係者の間では、今や『アレルギー対策なら公明党』が定評」。園部さんは言明する。
文中敬称略、肩書は当時
2007年02月23日 公明新聞