てい談 冬の祭典 感動再び

公明新聞:2018年1月14日(日)付

大倉山ジャンプ競技場で談笑する杉、船木、太田の各氏=札幌市大倉山ジャンプ競技場で談笑する(左から)杉、船木、太田の各氏=札幌市

平昌五輪が来月開幕
プロスキージャンパー 船木 和喜氏
衆院議員 太田 昌孝氏
参院議員 杉 久武氏

2月9日に開幕する韓国・平昌冬季五輪まで1カ月を切り、日本人選手への注目度が日増しに高まっています。そこで“冬の祭典”の見どころなどをめぐり、1998年長野五輪金メダリストでプロスキージャンパーの船木和喜選手と、公明党の太田昌孝衆院議員、杉久武参院議員が語り合いました。

競技人口の減少に歯止めかけようと後進支援 船木

昨年11月、山口那津男代表と一緒に韓国を訪れ、平昌五輪で使用されるスキージャンプ台などの競技施設を視察してきたので、開催が待ち遠しいです。船木さんは、注目している日本人選手はいますか?

船木 ジャンプ女子で初出場する勢藤優花選手(20)です。私の教え子で高梨沙羅選手とも幼なじみです。

どんな特徴を持った選手ですか?

船木 ひと言で言うと、動じない。一般に、世間の注目を集めれば集めるほど、選手の耳にはさまざまな外野の声が入ってきます。彼女はそうした情報に左右されず、ムダなものを整理し、捨てることができるのです。加えて安定感もありますので、“会心のジャンプ”を期待しています。

太田 身に付ける能力より、捨てる能力に着眼されている点が、とても興味深いです。

船木 選手への指導で気を付けているのは、干渉し過ぎないことです。一昔前なら、上から物を言って抑え付けるような指導も通用しましたし、私自身もやらされた練習の方が多かったです。

しかし今の10代、20代の若者には合いません。自己表現の苦手な人が多いですが、私はむしろ放置するように心掛けています。自らの考えを自発的に発信する力を培わないと、選手として伸びていかないと思っています。

太田 なるほど! 船木さんの指導者としての顔が垣間見えますね。

船木 お父さんみたいなものです(笑い)。ただ、私も現役選手として彼女たちと一緒に練習し、試合に出ている分、掛ける言葉に説得力があると自負しています。

昨秋の訪韓時に会った文在寅大統領とも、平昌五輪を日韓交流の発展に寄与できる大会にしていくことを確認し合いました。ジャンプをはじめ、多くの競技で日本人選手の活躍が楽しみです。

長野大会ではパラリンピックの理解が進んだ 太田

太田 長野五輪から20年の節目を迎えます。当時、私は長野市役所に勤めていて、長野パラリンピック組織委員会に出向していました。実は、きょうは思い出の役員用コートを着て来ました。

船木さんのジャンプでラージヒル団体の金メダルが決まった瞬間、私たちのいた事務所が歓声で揺れた光景は忘れられません。

私は大学卒業を控えた時期で、同世代の船木さんが世界に挑む姿を、テレビにかじりついて見ていました。ジャンプ競技場には3万人を超す観衆が詰め掛けていたそうですね。

船木 はい。海外でのブーイングには慣れていましたが、無数の日本国旗がたなびく中、声援を一身に浴びて飛んだのは、この時が初めてでした。

太田 地元の応援は力になりましたか?

船木 緊張しましたが、とても心強かったです。

太田 うれしい! 応援してくれた人も喜んでいると思います。

船木 長野五輪では、金メダル2個(個人と団体)と銀メダル1個(個人)を取ることができました。特に、団体金メダルへの周囲の反響は、予想を上回るものでした。そこで初めて、「日の丸を背負っていたんだな」という実感を強く持ちました。

競技中のプレッシャーは、相当なものだったのでは?

船木 実際はそんなに感じていませんでした。なぜなら、やることがいっぱいあるからです。それぞれの選手の結果を聞きながら、頭の中では「あの選手がここまで飛んだから、自分はどれだけ飛ばないといけないか」などと計算を繰り返しています。

太田 長野大会では、パラリンピックに対する国内の理解が大きく進んだことも印象的です。船木さんの活躍に後押しされ、パラリンピックにも大きな注目が集まるようになりました。

そして、パラリンピック選手の大活躍により、障がい者スポーツの素晴らしさを皆さんに知ってもらうきっかけになりました。今でも当時の仲間が集まると、その話題になります。

船木 日本のパラリンピック選手は世界でもトップクラスです。注目したいですね。

楽しみな日本人選手の活躍。交流発展も期待 

長野五輪の翌年、船木さんは、協賛企業からの支援金や大会の賞金を主な収入とするプロ選手に転身しましたね。実業団が一般的な中、思い切った決断だったと思いますが。

船木 日本は恵まれた環境です。実業団にいれば、成績が上がらなくても給料をもらえる。結果が出なければ、社員として残る道も用意されています。ところが海外は違う。みんなプロです。私も、彼らと同じ環境、土俵で戦いたいと思ったのです。

太田 同じ時期に会社も起こしていますね。

船木 日本の場合、所属する実業団などがなければ、全日本スキー連盟に選手登録できない仕組みになっていたからです。起業に関する本を古本屋で買い、読みあさりました。税金のことなどで法務局にもずいぶんお世話になりました。

船木さんが製造・販売を手掛けるアップルパイも好評のようですね。パイが金メダルとほぼ同じ重さなのも話題です。

船木 リンゴは私の地元・北海道余市町産を使用しています。私も全国各地の百貨店に出向き、催事場に立っています。販売を始めたきっかけは、ジャンプの後輩たちの働き口を作るためでした。ウインタースポーツの競技人口が減少の一途をたどっており、それに歯止めをかけたいという思いがあります。

太田 売り上げの一部を後進の育成にも充てていますね。

船木 スーツやヘルメットなどのスポーツ用品を贈り、その数は通算で7000点に上ります。高梨選手も子どもの頃、使ってくれていました。また、北海道江別市には、子ども用のジャンプ台も造りました。

太田 素晴らしい取り組みです。

船木 私自身が幼い頃に飛んでいた余市町のジャンプ台も、1972年札幌五輪で金メダルを取った笠谷幸生さんが改修したものでした。こうした見本となる先輩方への恩返しでもあります。

平昌五輪、2022年北京五輪を経て、26年大会は札幌市が招致をめざしています。地元の公明党議員もそれを後押ししています。私たちも一緒になって、ウインタースポーツの振興に取り組んでいきます。

船木 後輩たちにも大観衆の中で飛ぶ経験をさせてあげたい。北欧だと、70代のおじいちゃんも孫と一緒にジャンプを楽しんでいます。やがては、こうした生涯スポーツにまで育てていくことをめざしています。

太田 きょうは船木さんのスポーツに懸ける使命感に触れ、感銘しました。これからの活躍にも期待しています!

ふなき・かずよし

1975年、北海道生まれ。10歳でスキージャンプを始める。高校卒業後、スポーツ用品メーカーに入社。22歳で挑んだ98年長野五輪では、ラージヒル個人とラージヒル団体で金メダル、ノーマルヒル個人で銀メダルを獲得。翌99年に退社し、日本初のプロジャンパーに。現在は現役選手の傍ら、北海道メディカル・スポーツ専門学校の副校長兼スキー部監督を務め、指導者としても活躍する。

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