賃上げへ何が必要か

公明新聞:2017年5月22日(月)付

慶應義塾大学商学部・樋口美雄教授慶應義塾大学商学部・樋口美雄教授

慶應義塾大学商学部 樋口美雄 教授に聞く

自公連立政権の下で続く景気の回復をさらに力強く進め、デフレ脱却を確かなものにするカギを握るのは賃上げだ。その実現には何が必要か。労働経済学を専門とする慶應義塾大学商学部の樋口美雄教授に聞いた。

人手不足だが…

賃金伸びる速度遅い 収益増えても分配進まず

実質賃金と名目賃金の前年比増減率推移―雇用情勢の現状をどう見ますか。

景気が上向いたことで、求人が増え、失業率も下がっており、かなり人手不足になってきている。人口減少社会の到来という側面も大きい。働き手の人口(15~64歳の生産年齢人口)は、ピークだった1995年より1000万人以上減少している。

90年代から約20年間続いた景気低迷時には、企業が生産年齢人口の減少以上に求人を抑えてきたので就職難が続いてきたが、景気が多少なりとも回復して求人が増えることで、建設や介護などで人手不足が始まり、急速に幅広い業種に広がっている。

―人手不足の中で賃金はどうなっていますか。


賃金の伸びは、特に中小企業や非正規労働者で顕著になっている。賃上げの動きは続いている。

ただ、賃金が伸びるスピードが従来よりも遅い。本来、失業率が下がるほど賃金上昇率が高くなるはずだが、そうなっていない。

特に大企業は、過去最高の収益を記録するところも多いが、従来のようには収益が増えた分だけ賃金に分配されておらず、収益と賃金の間にかなりの乖離が生じている。

その背景には、企業のガバナンス(統治)のあり方が大きく変化していることがある。

企業の変化進む

短期的な利益 より重視 人件費は「投資」と位置付けを

―企業にどんな変化が生まれているのですか。

会社の合併や分割、組織変更が進み、企業と労働者の関係に大きな変化が起こっている。さらに企業の資金調達方法も変わった。従来は、銀行からの長期の借り入れがメインで、銀行側も企業の持続的な成長を求める傾向が強かった。だが、現在では、株式による資金調達が多くを占めるようになり、ファンドや海外の株主も急激に増えている。

これにより、その時々の配当や株価がどうかということが、経営上、より重要なポイントになった。長期的な視点よりも、コスト(費用)をいかに抑え、短期的な利益をどう確保するかが重視されてしまうようになり、費用削減という形で、賃金や正社員数の抑制が行われるようになった。経済の先行きへの不安もある。

だから、大企業では、収益が上がって株主への配当や内部留保が増えているにもかかわらず、賃金、特に基本給に配分されにくくなっている。

―企業の収益増を賃上げにつなげていくには。

今後、生産年齢人口が加速度的に減り続ける中で、企業にとって人材は宝であり、その育成は「投資」である。労働者の意欲、「やる気」を高めていくことも大切であり、賃金、労働時間などの雇用条件の改善は不可避だ。

そうした認識を株主が認めることが重要になる。そのために、法人会計上は「費用」とされる人件費の位置付けを見直し、長期的な投資という意味合いを持たせていくべきだ。企業も長期安定株主を増やす努力をすべきだ。

政府の働き掛け大切に

―政府が企業側に賃上げを要請していることに対し、一部に“官製賃上げ”との批判もありますが。

批判は当たらない。政府の働き掛けが大切な局面だ。日本では、賃金や労働時間などについて、個別企業ごとの労使自治に全面的に委ねる「分権型」だ。業績に応じて企業ごとに賃金を調節できる柔軟性があるので、解雇せずに済む利点がある。ただ賃金は下げても雇用を守ろうといった協調があまりに続くと、会社側の「国際競争や顧客獲得のために価格引き上げができない」といった理由で、賃金の抑制圧力が強いままになりがちだ。

特に価格競争の激しい社会において、デフレ下でこの問題を個別労使だけで解決するのは難しい。個別労使それぞれのミクロの合理性と、マクロ経済の成長と分配の好循環の間に隔たりがある状態が続いてきた。両者をつなげていくために、「政労使」での会議を作り、賃上げを促している。

“底上げ”がカギ

「同一賃金」で中間層強く 若者、女性、高齢者らの能力開発促す支援も

正社員と非正規労働者の月給の推移―賃上げ実現へのポイントは他にありますか。

比較的所得が低い層の底上げをしていくことも重要だ。経済全体への効果から見ると、賃金が上がって、たくさん消費に回すのは低所得者の方だ。現在、政府は「働き方改革」の柱として、同一労働同一賃金を打ち出しているが、これも底上げに向けた政策だ。

欧米の例を見ても、格差が拡大して中間所得層が細り、所得の二極化がさらに進めば、政治的、社会的な不安定につながりかねない。賃金が相対的に低い非正規で働く人が全体の約4割まで増え、世帯主や若者、シングルマザーなども含まれる時代を迎えている。そうした人たちを政策的に支え、中間所得層を厚く、強くする。これが同一労働同一賃金のめざすところだ。税や社会保障もこうした視点を重視し、改革していく必要がある。

―非正規で働く人には、希望しても正社員での就職がかなわなかった若者や女性、高齢者が多いですね。

就職氷河期世代の中でも特に、30歳台前後の世代で非正規労働者の割合が高まっており、所得の二極化への懸念がある。これは日本の将来を左右する重大な問題だ。

また、サービス業が大きな割合を占める産業構造になっている中、非正規が多いものの女性の求人が増えている。2008年のリーマン・ショックの際も、製造・建設業など“男の産業”が求人を大きく減らした一方、介護など女性が多い業種が雇用を伸ばした。その結果、夫の収入が減っても、妻が働く「共働き」で世帯収入を確保するケースが多くなり、日本は他国のような激しい格差の拡大から免れた側面もある。

高齢者に関して言えば、寿命が延びて定年後の期間が長くなっているため、それだけ老後の不安が高まっている。今の現役世代も賃金が上がっても消費でなく貯蓄に回す傾向がある。

こうした現状の中、誰もが個々の状況に応じて働くことができ、適切な賃金を得られるようにする。これを制度面で実現しようとするのが同一労働同一賃金をはじめとする働き方改革だ。

改革を実のあるものにして、弱者を極力生まないようにするためのカギを握るのが、能力開発である。あらゆる人が、希望を持ちながら飛躍していくための“翼の補強”を支援していくことが重要だ。正社員として定年まで働き続けるというルートに乗っていなくても、しっかり技能を習得して働いていけるようにしなければならない。

法律や制度が変わっても、実態が変わらなくては意味がない。実際に働き方が変わるかどうかは、こうした社会的土俵の変化に応じて、現場が変わっていくかにすべてかかっている。

ひぐち・よしお

1952年生まれ。慶應義塾大学商学部卒。同大大学院商学研究科博士課程修了。米スタンフォード大学客員研究員などを経て現職。政府の「働き方改革実現会議」有識者議員などを歴任。商学博士。

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