中道政治とは何か(下)

公明新聞:2016年10月4日(火)付

創造的な解決策を提案し、日本の政治をリード
公明党の決断が、与野党政権交代・連立政権時代の土台築く
党特別顧問 市川雄一

日本の新しい生き方開いたPKO法成立を主導する

次に本題のPKO(国連平和維持活動)協力法成立において、公明党が中道政党としての特色を発揮した経過を語っておきたい。

湾岸戦争終了後、1991年9月19日に、PKO協力法は国会に提出された。この法案は、海部内閣が90年10月16日に国会に提出した「国連平和協力法案」が、同年11月8日に廃案になり、その結果、同年11月9日に日本の国際貢献のあり方として、日本もPKO活動に参加すべきだとする自・公・民3党の合意を法制化するものであった。「国連平和協力法案」は武力行使を前提とした多国籍軍に、自衛隊が武力不行使を前提に参加、協力するとした趣旨のものだが、多国籍軍の武力行使との一体化が強く懸念され廃案になった。

PKOとは何か。その本質は、回復された平和を国連の力で守ることである。紛争当事国が国連等の努力もあり停戦を合意し停戦協定を結ぶ。壊された平和が回復される。この停戦協定が紛争当事国に守られていることが、停戦の継続になり、つまり回復された平和の継続になる。国連のPKO部隊は、武力不行使が前提で、この停戦協定が守られているかどうかを中立の立場で監視(モニター)する活動だ。

国連平和維持活動(PKO)には本体業務とされる平和維持隊(PKF)がある。PKFは停戦協定に基づき、武装解除の実施、武器の保管、捕虜の交換といった任務を行うことになっている。PKFは伝統的な軍隊とは、本質を異にする。「戦わない兵」といわれる。しかし、その任務からして軍事的知識、軍人としての経験が不可欠だとされている。国連のPKFは軍人経験者で構成されており、各国のPKO部隊と共同で活動する時、階級の問題が出てくるし、組織として行動するという面からみて文民ではできない事が起きる。ホテルに宿泊するわけではない。活動と生活の拠点を自分でつくらなければならない。食糧も水も医療も全て自己調達の自己完結型に生活し活動する。これが出来るのは自衛隊しかないので、その力を活用するしかないのである。もちろん、武力行使はしない。非強制、国連の権威で説得による活動である。

日本として参加を決めたのは、憲法の平和原則を尊重した5原則型のPKOである。PKO参加5原則とは、PKOの部隊の活動の原則を定めたもので、①紛争当時国が停戦で合意し、停戦協定を結ぶ②紛争当時国が、国連のPKO部隊の受け入れを合意する③国連のPKO部隊の活動は中立を厳守する④上記の原則が満たされなくなった時は、PKO部隊の活動の中断、もしくは撤収する⑤武器の使用は、要員の護身に限る、というものだ。

このPKO参加のための立法は、日本が世界平和に貢献する日本の新しい生き方を切り開く重要な作業だ。しかし戦後初めて自衛隊を海外に派遣するものであり、武力不行使を前提とした世界平和への貢献とはいえ、国民の理解を得ることが難しく、世論の反発は強かった。90億ドル支援の時も世論が二分して対立したが、PKOの時は、その比ではなかった。社・共は「青年に銃を持たせるな!」と反戦のスローガンを叫び、テレビでは自衛隊観閲式での戦車隊や銃をかつぐ自衛官の行進の映像を繰り返し流し、今直ぐにでも日本が海外の戦争に参加するような錯覚を与えかねないイメージがつくられつつあった。朝日新聞の世論調査(91年11月10日付)では、PKFへの自衛隊参加については、賛成33%に対し、反対は倍近くの58%だった。

当時、公明党は野党であり、与党的責任を負ったとはいえ、かなりきつい状況におかれていた。でも前回の90億ドル支援の時の教訓で、やり方如何によっては世論は変化することを承知していたので、冷静に対処する事が出来た。

「廃案濃厚」視された法案を公明の尽力で“蘇生”させる

ここで国会審議の経過を振り返ると、PKO協力法案は91年9月24日に衆院本会議、9月26日に衆院特別委で審議が始まったが、10月2日、次の国会で審議することになった。この秋、政変があり、11月5日に始まった臨時国会で宮澤喜一氏が首相に就任し、綿貫民輔氏が自民党幹事長に就いた。同じ質問の繰り返しが続き、審議が順調に進んでいるかにみえたが、突然、異変が起きた。

11月27日のPKO特別委で自社なれ合いのいわゆる強行採決が行われた。特別委の自民党の理事と社会党の理事が水面下で手を握り、自民が泥をかぶり“数で押し切られた”とする社会党理事の社会党内向けの言い訳をつくってあげて顔を立てる。自民党は採決の実をとるというシナリオだ。寝耳に水の出来事だった。私は直ちに自民党の綿貫幹事長に抗議したが、綿貫氏も全く知らなかった。公明党が抜ければ廃案だ。自民、民社では議席が不足で可決できない。でもこの日、民社は法案に反対し、“PKO与党”から脱落した。公明党がしっかりするしかない局面だと自覚した。

この日の翌日、公明党大会の初日であり、各紙の朝刊は、大見出しで“強行採決”を報じていた。党大会出席の代議員から、私と神崎武法国対委員長(当時)は激しく突き上げられ、懸命な説得に苦労したが、収まった。

この事態を受け、11月29日夕、自社公民4党の幹事長・書記長会談が開かれ、「11月27日の採決(可決)は有効」と確認され、12月3日の衆院本会議で自公の賛成多数で可決され、円満にPKO法案は参院に送付された。だが、この臨時国会では採決されず、12月10日、参院で継続審議の扱いとなり、またまた翌年の通常国会に先送りされた。12月11日、12日付の新聞各紙は、1面トップで「通常国会でも見通し立たず、廃案が濃厚」(「朝日」)、「継続でも廃案濃厚」(「読売」)、「大勢は『いずれ廃案』」(「毎日」)と、事実上、廃案との見通しを報じていた。マスコミによるPKO協力法案の廃案宣言ともとれる報道だった。

廃案は絶対に避ける、との公明党の決意に変わりはなかった。従って、党執行部は、この事態をよく分析した。四つの問題があった。

一点目は、この自社なれ合いの強行採決が、社会党の仕掛けたワナが効果を発揮し、反対の世論に火を点けたことだ。しかし時間の経過で自社演出が明白になり、公明党への誤解は消え、自社への批判が強まった。二点目は、民社はこの採決で法案に反対した。反対の理由は、PKO参加5原則の法文化と重複する“事前承認論”が無いということだったが、これは後日解決し、民社は法案に賛成することになり、「PKO与党」に復帰した。三点目は、マスメディアが、PKFの反対をことさら強調したことで、国民世論の反対が強まった。四点目は、自・公・民3党間に情報の共有による判断の共有がなかったことだ。この三点目と四点目が重要な宿題として残った。

直後の参院選で国民の審判「公明、過去最高議席獲得」

まず、四点目の件は、私が自民の綿貫幹事長、民社の米沢書記長と相談して、3党のいわばPKOに限定した司令塔的な役割を果たす自・公・民3党による衆参にまたがる協議体をつくることで合意した。この協議体は、衆院の常任委員長室で何回か開かれ、情報の共有による判断の共有に役立った。

三点目のPKFへの国民世論の強い反対が課題として残った。マスコミの報道にも一因はあるが、国民がPKFの活動に強い懸念を持っていることは事実だ。紛争に巻き込まれるのではないかという懸念である。どう理解してもらうか。それには時間が必要ではないかと考えた。

党内の一部には法案からPKFの参加の部分を削除してはどうかとの意見もあった。しかし、国連平和維持活動(PKO)の本体業務とされるPKF(平和維持隊)を削除してしまうのは法として軸を欠いたものになるのではないか。それでは意味がない。国民の理解を得られるまでの間、「一時凍結」の措置はどうかとの意見があった。PKF活動を、法律によって一時凍結し、法律によって凍結解除を行うということである。議論の結果、党はこの案を採用することに決めた。

そこで私は、92年2月4日の予算委員会で、国民及びアジア諸国の理解を得る時間的必要性を理由として、渡辺美智雄外相(当時)に、PKF活動の「当分の間の凍結」を提案した。もちろん渡辺外相は即答は避けたが、この提案が、後に自公民3党間の合意となり、法改正が行われた。これで四点目の宿題は解決された。

世論の理解を祈る気持ちであった。この措置が、結果として“廃案濃厚”からPKO協力法の蘇生につながっていったのである。

7月の参院選が迫る92年6月11日、PKO法は衆院特別委で可決された。特に国政選挙直前の国会対応は難しい。結果如何では、そのまま選挙の勝敗につながってくるからである。

やはり土壇場でまたもや異変が起きた。92年6月、衆参の本会議における法案採決の最終局面で、社・共が度を越した牛歩戦術を演じた。社共による牛歩は、参院の本会議場で5泊6日、衆院の本会議場で4泊5日に及んだ。

しかし、92年6月9日、PKO協力法は、参院で修正議決されて衆院に回付され、同15日にラストの衆院本会議で自公民3党の賛成多数で可決された。あとは、92年7月26日の参院選による国民の審判を待つのみになった。

その参院選の結果は公明党の大勝だった。公明党6選挙区(北海道、東京、愛知、大阪、兵庫、福岡)で全員当選、比例区では8人が当選した。過去最高と並ぶ14議席を獲得した。一方、社会党は前回(3年前)の46議席が大幅減の22議席に止まった。明らかにPKO法をめぐる国会での審議や議決と、そのあり方に対する審判であった。これで3年前の参院選敗北の雪辱は果たした。党の努力は当然のこととして、世論が二分する中での選挙で切迫した危機感から、支持者の皆様の必死の支援があった。この懸命の支援の賜物であることを忘れてはなるまい。

日本のPKO参加に当たり、参加5原則を公明党の要請で法律に明記した。これは内閣の決定と国会の議決によるもので、この5原則に反する活動はできないことを意味している。さらに、国民の懸念を払拭するため、PKFの活動は、法律で「一時凍結」としたことも公明党の提案であった。

PKO法制定20年余、国民の中に深く定着「中長期的な合意つくる求心的役割」果たす

こうした世論とのやりとりや「自・公・民PKO与党」内での理の通った議論が国民の常識に適った結論(中道的な判断)を生み出したのであろう。これで、キャスチングボートを握ったが故に、野党でありながら与党的な責任と党再建の重責を背負うことになったのだが、この二つの役目を同時に果すことができたのである。政治の現実と向き合うのは大変な労苦である。だが、この労苦の中にしか、国や国民の期待に応える道がないことを心に強く刻み込んでおくべきであろう。

振り返って言えることは、89年の参院選に敗北し、結果としてキャスチングボートを握ったことが、党の路線転換につながり、社公民路線と決別した。この路線転換が湾岸戦争における日本の外交を支え、政治の安定に大きく貢献したのである。

二点目として、この時の路線転換が政治の枠組みを大きく変え、細川政権を生み出し、同政権の政治改革の実現で、政権交代時代の土台を築いた歴史的な意義があったとの識者の指摘もある。

注目すべき後日談がある。読売新聞は2012年3月18日付社説で「今年はPKO協力法制定20周年である。自衛隊は世界各地で実績を上げたことで、国際的な評価を受け、国民の理解も広がった」と書いている。内閣府世論調査によると、PKO法施行2年後の1994年度に実施された「外交に関する世論調査」では、国連平和維持活動に「これまで以上に積極的に参加すべきだ」、または「これまで程度の参加を続けるべきだ」と答えた者の合計が58.9%であったのに対し、2011年度の調査では、両者の合計は83.6%にまで上昇している。ちなみに、今年16年1月の同じ世論調査では、両者の合計は81.0%である。11年の数値よりは2.6%減じているが、80%台という高率を、PKO法成立24年後の今なおキープ(保持)しているのである。まさに、先に引用した中北浩爾氏が公明党に期待する「中長期的な合意をつくる求心的な役割」をすでに果たしているといっても過言ではないと思う。

国論を二分する激しい対立があった当時を思うと、その落差に隔世の感を禁じ得ない。当時、私たちは「将来、必ず国民が理解してくれる、感謝してくれる」と必死に訴えていたが、まさにその通りになったと思わざるを得ないのである。時として「大衆は愚にして賢」といわれることがあるが、その言葉の意味を強くかみしめている昨今である。

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