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2020年3月11日

東日本大震災9年 3・11 私たちの証言

困難と向き合い、明日へ歩む

2011年3月11日―。あの日、人々はどんな経験をし、この9年間をどう歩んできたのか。岩手、宮城、福島の3県で東日本大震災に遭遇した人たちの証言を紹介する。=東日本大震災取材班

岩手

佐々木結菜さん(高校2年生)

佐々木結菜さん(高校2年生)

あの日、私は小学校2年生。大きな揺れが収まって、全員で高台へ避難。仲のいい友達が途中、自宅に戻ってしまいました。家を壊しながら津波が迫り、もっと上へ逃げました。振り向くと町は水没、やがて火の手が上がり一面火の海に。本当に怖かった。

私の家族は4人とも、みんな無事でしたが、家に帰った友達が亡くなったことを後から聞きました。

命が失われるのは、もう嫌だ! 自然災害から一人でも多く助かるようにと高校の仲間と昨年夏、自分の体験をもとに紙芝居を作り、津波の恐ろしさと避難の大切さを伝えています。子どもの時、震災に遭ったから、今の子どもたちへ教訓を伝えていきたい。未来の命を守るために、語り続けます。(岩手・大槌町 17歳)

山根幸伸さん(カキ漁師)

山根幸伸さん(カキ漁師)

春が旬の宮古湾特産「花見かき」の養殖を始めて20年。大津波は、収穫前のカキに加え、イカダも養殖施設も、全てを奪い去りました。幸い、宮城県の漁師仲間が稚貝を分けてくれ、3カ月後には仮施設で養殖を再開できました。

ようやく軌道に乗り始めたと思えば台風に、大しけに見舞われました。その都度、乗り越えて来たものの、昨年の台風19号には参りました。順調に育っていたカキは3割が流出。またか……と喪失感に苛まれながらも、カキを待ち望む人がいたから、今があります。

まだ生産量は少ないもののカキは着実に復活。県内外の多くの人に「花見かき」を知ってもらう機会が増えました。災害に負けず、前向きに頑張ります。(岩手・宮古市 63歳)

淺沼ミキ子さん(陸前高田「ハナミズキのみち」の会代表)

淺沼ミキ子さん(陸前高田「ハナミズキのみち」の会代表)

長男の「健」―健やかに、元気に育ってほしいと願い名付けました。息子は市の嘱託職員として働き始めたばかり。あの日は、避難所で懸命に住民を誘導していました。

息子と再会したのは、発災から10日目。遺体安置所で静かに眠る顔には泥がつき、冷たい頬をそっと撫でると、左目から一筋の涙がこぼれ落ちたのです。もっと生きたかったはず……。

2013年、亡き息子たちの生きた証しを綴った絵本「ハナミズキのみち」を出版。現在は避難路が一目で分かるようにと、ハナミズキの植樹活動を行っています。また津波が来たら、より高い場所へ逃げること。もう二度と同じ悲しみを繰り返さないよう、命を守るすべを伝え続けていきます。(岩手・陸前高田市 56歳)

宮城

尾形順一さん(小々汐打囃子保存会会長)

尾形順一さん(小々汐打囃子保存会会長)

経験したことのない揺れから40分後、白い水の壁が真っ黒い帯をまとって気仙沼湾に襲来。やがて海に流れた油が燃え「鹿折は全滅した」と思いました。

私が住む小々汐地区でも津波で多くの人が家を失い、家族を亡くした人もいます。住民が散り散りになる中、私は小々汐打囃子保存会の会長として「太鼓で地域のつながりを取り戻す」と決意。震災後、生活も大変な中、みんなで続けることを決めました。

太鼓は、ほぼ津波に流されましたが、全国からの支援によって、震災翌年から地区の伝統芸能が復活。建設中の気仙沼湾横断橋が完成したら、私たちの太鼓で祝いたい。“復興の節目”を目標に次の世代へ、故郷の音を響かせ続けます。(宮城・気仙沼市 71歳)

鈴木典行さん(大川伝承の会共同代表)

鈴木典行さん(大川伝承の会共同代表)

あの時、小学校6年生だった娘の真衣は大川小学校にいました。「学校だから大丈夫」と思いながらたどり着くと、地面から小さな手や足がのぞいています。手で土を掘り、冷たくなった体を抱き起こしました。小さな学校だから知っている子ばかり。「ここにいるはずがない」と淡い期待を抱きましたが、真衣は土の中から見つかりました。

大川小学校を訪れた人に私は「子どもの命は絶対に大人が守るべき」「命を守る行動とは逃げること」と語り続けています。

もし再び、真衣に会えるなら強く抱きしめてあげたい。東京五輪・パラリンピックの聖火リレーでは真衣の名札と一緒に走ります。あの出来事を一人でも多くの人に伝えるために。(宮城・石巻市 55歳)

渡邉哲也さん(中華料理店主)

渡邉哲也さん(中華料理店主)

震災前、生まれ育った閖上で、2代目店主として中華料理「浜一番」を営んでいました。あの日、経験のない大きな揺れに「これは津波が来る」と確信。自宅にいた家族を車に乗せ、内陸に向かって急いで避難しました。

すべてが流された閖上でわが店だけが残っていました。しかし、中は津波で全て壊され、「もう二度とここで商売はできない」と絶望。また、いつか閖上で自慢のみそラーメンを出せれば……と、仙台市で店を続けることに。

それから8年、かさ上げされた閖上で店を再開することができました。

「閖上のまちは変わったけど『浜一番』の味は変わらねぇ」。常連客の温かい言葉に応え、さらに腕によりをかけます。(宮城・名取市 59歳)

福島

佐藤弘道さん(会社員)

佐藤弘道さん(会社員)

震災後、地元で親交を深める一方、避難してきた人が早くいわきになじんでもらえるよう交流しています。

私たちの地域は海から遠く、いつしか“3.11”の記憶が風化しかけていました。わが家は夏井川の目の前です。誰もが「この川はあふれない」と思い込んでいました。昨年の10月までは……。台風19号の時、自宅でくつろいでいると、気がつけば浸水が始まり、みるみる水位が上昇。妻と間一髪で2階へ避難し、近所の人と窓から声を掛け合い、眠れない夜を過ごしました。

大震災と大水害を経験してから、助け合って生きていくことの大切さを痛感しました。お互い顔が見え、いつでも頼れるような、つながりをわが地域に築いていきたいです。(福島・いわき市 54歳)

川合宏宣さん(整体師)

川合宏宣さん(整体師)

震災前は、実家の精肉店を手伝いながら、町外で整体師をしていました。いずれ生まれ育った浪江町で施療院を開業する夢がありましたが、原発事故が発生。

3日で自宅に戻れると思っていた両親を連れ出し、着の身着のまま避難。県内を転々とした後、秋田市で6年間過ごし、整体の仕事を続けました。浪江は雪がほぼ降らないので雪国の暮らしは大変でしたが、周囲の温かな励ましに助けられました。

避難指示解除後、昨年8月に帰郷し、施療院を開業。あれから9年の月日は、私にとっては9週間のように感じます。帰還する住民はまだ少ないですが、「川合の店」に来てくれた人の心と体をほぐしたい。気軽に寄り合える場にしたい。これからが私のスタートです。(福島・浪江町 45歳)

本間麻斐和さん(高校3年生)

本間麻斐和さん(高校3年生)

私が通っていた小学校はマーチングバンドが盛んでしたが、原発事故でメンバーは各地に避難し離れ離れになりました。半年後、バンドの友達と再開し、ホッとしました。その後は中高生も加わり「シーズプラス」として活動。私は「みんなを笑顔に」との思いを込めてトロンボーンを吹いています。

県外の演奏では原発事故で福島への誤解や偏見が心配でした。そんな時、松山市のスタジアムで私たちの演奏に“南相馬コール”が沸き起こり感動しました。

いま、南相馬の人々が前を向いて歩んでいることを知ってほしいです。今春からは、短期大学に進み、幼児教育・保育の道をめざします。つらい時も私を支え、成長させてくれた音楽の楽しさを子どもたちに伝えていくつもりです。(福島・南相馬市 18歳)

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