ニュース
「共有できる価値観」を取り戻す中道政治の原点に還れ(下)
先崎彰容・日本大学危機管理学部教授に聞く
■苦しむ人に手を差し伸べる政治進め、信念語り続けて
――公明党に期待することは。
先崎彰容・日本大学教授 少し難しい表現で恐縮だが、現代社会は、「辞書的基底」が崩壊した時代である。辞書的基底とは、文字通りに本の辞書を思い出してほしい。英文を読んでいて分からない単語に出くわすと辞書を引くだろう。例えば、LIFEなら「生活」とある。何の疑いもなく英単語の横に日本語の「生活」と書き込んで先を読み進めていく。この際の「信頼」を支えているのは、他のどの辞書にもLIFEの意味は「生活」のはずだと“信じられている”からだ。出版社が違っても同じことが書かれていると、私たちは信じている。これが「辞書的基底」だ。
生きる意味を一人一人が自分で確定させなくてはならない時代、各自の辞書に書いていることがバラバラな時代こそ現代日本社会だ。つまり「LIFE」に「個人主義」とも、「生活」とも、「りんご」とも書いてある。確定的な意味がない時代、それに伴う不安と閉塞感が今の時代を覆っているのだ。
こうした時代には、明確な指針を急いで作っても意味がない。だからこそ、私は先ほど来、再三にわたり公明党に対して、“微調整”の意味をもっと追求してほしいとお願いしている。“微調整”とは少しだけ調整する、という意味ではない。緊張感の溢れる作業、少しでも手を抜けば社会全体が瓦解するような繊細な作業だと知ってほしい。そして、それを強調する言葉を練ってほしいのだ。
私からすれば、今まさに苦しんでいる目の前の人へ常に手を差し伸べる政治を地道に行う公明党であってほしい。社会で孤立する人々の居場所を提供し、苦しむ人たちが信じられる「辞書的基底」を見いだすための中道政治の哲学を語り続けることが何より重要だ。ただ、中道政治の信念を語ることが、すぐさま得票の増加に結び付くわけではないとも思う。太田昭宏・公明党常任顧問が指摘するようにリアリズムも必要だろう。
だが、中道政治の信念を熱を入れて語らなければ、本当の意味での党勢拡大にはつながらないのではないか。まさに今こそが中道政治の腕の見せどころだと思う。
――公明党議員が語る政治をどう感じているか。
先崎 公明党にかかわらず「なんだかこの人、良いこと言うな……」と感じさせる議員は多くない。私事だが先日、自宅の近くを歩いていたら80代ぐらいの女性に呼び止められ、「先生の本を読んでいます」「ニュース番組も、いつも見ています」と言われた。私はテレビ番組は月に1、2回くらいしか出ていない。ただ、これまで私は自分なりに言葉のあり方を鍛錬してきたし、そうした自分なりの努力がわずかなテレビ出演の中でも話し掛けてくれた方の心に残っていたのかなと思う。
語ることを仕事にする政治家は、有権者と接して言葉を交わす場面が多い。自らが発する一つ一つの言葉がどれだけ相手の心に残っているかを意識しない議員を私は信用できないし、有権者も信用しないと思う。まして公明党は大衆の政党だ。大衆の政党の議員として発せられる言葉が、中途半端なエリート感を漂わせては支持者も落胆するのではないか。もっと泥臭く、さまざまな意見の相違がありながらも最後は一致団結し、煩悶しながら言葉を紡いでいく政党が公明党ではないかと思う。
振り返れば、冬柴鉄三元国土交通相、草川昭三元国会対策委員長など古い公明党の議員には迫力ある辻説法のプロが多くいた。当時の公明党の国会議員からは立党精神に基づく国家観を感じることができた。地べたに立って、貧しい人々、苦しい人々を鼓舞し私たちと一緒に日本を良くしていこうと熱っぽく語っていたのが公明党だったのではないか。一つの言葉がしっかりと人の心に残ると、時代は大きく変わっていくものだ。
先日、自民党の麻生太郎最高顧問と意見交換する機会があった。麻生顧問は自民党の国会議員は政策通が多く、勉強も積極的だが、どこか大きな国家観が欠けているとしきりに嘆いていた。政治家に限らず、言葉というものは人生観や来し方、誰からどのような薫陶を受けてきたかがにじみ出てくる。一度大変な経験をした中からはい上がってきた人の余裕やオーラは全然違う。誰しも人間的な深みのある政治家にこそ、この国を任せたいと思うのではないか。
■「小粒の正義感」より他者への「寛容の精神」育む姿勢が重要
――「政治とカネ」の問題で政治不信が強まっている。一方、民主主義を守るにはコストが必要だ。
先崎 政治腐敗の一掃を求める国民感情が高まるのは当然だろう。それ自体の正しさは否定しようがない。メディアは正義感から「政治とカネ」の問題点を追及し、それが社会の木鐸たる使命だと考えているのだろう。ただ、致命的な欠陥を見逃している。「政治とカネ」の問題は、国民の怒りを一方的にかき立てる“最悪の組み合わせ”という点だ。社会が大きく腐敗しているように見えてしまう。従って政治の側も自らの首を絞めるような対応しかできなくなる。
戦前の政党政治に終止符を打った「二・二六事件」は、まさに「政治とカネ」の問題が国民の怒りの極致に達したことで起きた軍事クーデターだった。「政治とカネ」の問題が深刻化すると、暴力に訴えようとする人が出てくるのは歴史の常である。このような構図は今も全く変わっていない。
やみくもに小粒の正義感を振りかざすことで、結果的に誰もが生きづらくなる社会を生んではいけない。過去に起きた歴史を絶対に繰り返すべきではない。そうしないためにも、他者に対する寛容の精神を育む政治姿勢が重要になる。(月刊「公明」12月号から転載)









