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結党60年「日本の柱」公明党 原点から未来へ
人権の党
差別、偏見の壁打ち破る
犯罪被害者救済に道筋 性的少数者 理解増進も
「『平和・人権の党』として社会正義を貫き、国家主義、政治腐敗、人権抑圧と断固戦う」。これは公明党が連立政権参加を決めた第2回臨時全国大会(1999年7月)で、あらためて党の基本姿勢を宣言したものだ。目の前の苦しんでいる人を救わずにはおくものか――これが結党以来、どの党よりも真剣に人権を守る闘いを貫いてきた公明党の“血潮”である。
主な取り組み
1981年 犯罪被害給付制度の創設
2000年 児童虐待防止法、ストーカー規制法成立
01年 ハンセン病補償法、DV防止法成立
08年 刑事裁判への被害者参加制度導入
13年 障害者差別解消法成立
16年 ヘイトスピーチ解消法
部落差別解消推進法成立
23年 LGBTなど性的少数者への理解増進法成立
24年 無戸籍者の「嫡出推定」の見直し
犯罪被害者等支援弁護士制度の創設
旧優生保護法補償金等支給法成立(来年1月施行)
“犯罪の被害に遭った人も悪い”。戦後の日本社会にまん延していた風潮に公明議員は憤慨した。きっかけは68年に最愛の息子を通り魔に奪われた父親の市民相談(70年)。やり場のない遺族の怒りと悲しみに公明議員は寄り添い、補償制度の確立へ闘いを開始した。
公明党は75年3月、他党に先駆けて犯罪被害者補償法の要綱を発表。76年5月に党独自の法案を国会に提出した。6万人の署名簿も政府に届け、早期実現を迫り、ついに80年4月に「犯罪被害者等給付金支給法」が実現する。補償の第一歩が記された瞬間だった。
連立政権参画後も、公明党は戦後の“負の遺産”ともいうべき難題に立ち向かった。その一つがハンセン病問題だ。
日本でもハンセン病患者の隔離収容といった深刻な人権侵害が国家政策として実行され、96年に「らい予防法」が廃止されるまで偏見や差別が助長されてきた。療養所入所者らが起こした違憲国家賠償請求訴訟は、2001年5月に熊本地裁で国側の敗訴判決が下る。だが国は高裁に「控訴すべき」との方針で固まっていた。
公明出身の厚労相が辞任覚悟で控訴断念
ハンセン病問題を全面解決 原告団「公明は人の痛み分かる」
ハンセン病原告団(左側)に対し、厚労相として深々と頭を下げ謝罪する坂口氏=2001年6月1日 厚労省
公明党は人道を優先すべきだとして、小泉純一郎首相(当時)に控訴断念を直訴。公明党出身の坂口力厚生労働相(同)は辞任覚悟で原告団と面会し、頭を下げて謝罪した。これが決め手となり、小泉首相が「控訴せず」を決断。マスコミも「厚労相『人権』貫く」(朝日)と報じた。
同年6月にハンセン病補償法が成立。02年には遺族や非入所者と和解し、全面解決した。今年6月にはハンセン病元患者家族への改正補償金支給法も成立。補償金(最大180万円)の申請期限が29年11月21日まで延長された。ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会の竪山勲事務局長は「失われた人権であれば、回復されるのは当然と、信念を貫くことができる公明党には、人の痛みが分かる政治家がそろっている」と語る。
近年でも、公明党が推進し実現した政策は数多い。23年6月に施行されたLGBTなど性的少数者への理解増進法の制定を巡っては、多様な性に関する国民の理解を広げるため、公明党が当事者や有識者へのヒアリングを約30回にわたり実施。山口那津男代表(当時)も当事者のための交流施設を訪問したほか、早期の法整備を求めて岸田文雄首相(同)に直接働き掛けるなど、幅広い合意形成に尽力した。
その結果、同法の基本理念には「性的指向およびジェンダーアイデンティティを理由とする不当な差別はあってはならない」と規定。政府に基本計画策定を義務付けたことで、内閣府に政策立案などに当たる担当部署が設置された。
このほか、無戸籍者の「嫡出推定」の見直しや、旧優生保護法下で障がいなどを理由に不妊手術を強制された被害者らを救済するための補償法の成立なども、公明党が一貫してリード。これからも公明党の人権を守る闘いは続く。