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74回の「長崎原爆の日」 体験の継承 世界へ、未来へ
長崎市はきょう、74回目の「原爆の日」を迎えた。厚生労働省によると、被爆者の平均年齢は82.65歳(3月末現在)と高齢化が深刻で、被爆体験の継承が大きな課題となっている。そうした中、証言集のパネル化や英語による講話など、継承の多様化が進んでいる。「二度と原子爆弾を使用させない」との強い思いを持ち続ける被爆地の姿に迫った。(九州支局・林和貴)
受け継ぐ証言、後世に
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で開催されている「女性たちの原爆」展
展示や朗読会 被爆者の思いを代弁
国は戦後50年の1995年に被爆者の実態を調査。その際に寄せられた手記は「被爆体験記集」(通称・黒本)としてまとめられた。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館では、長崎で被爆した人のうち約5万4700人分の体験を公開している。
一方で、「辛く悲しい原爆の記憶を思い出したくない」「被爆体験を話したら、家族が差別されるかもしれない」などとの理由から、口を閉ざす被爆者も少なくない。
一人でも多くの証言を残そうと、同祈念館では、被爆者の健康診断に併せて体験記の寄稿を依頼。こうした取り組みに応え、少しずつ口を開き始めた体験者もいる。14年以降、328人の被爆者が体験記を提供した。
そのうちの一人、松本長子さん(87)は「被爆体験は家族にさえ話したことがなかった。だが、子どもや孫に繰り返し聞かれる中で、今、語らなければ後世に事実を残せなくなると決意した」と、15年6月に初めて証言を公表した時の心境を語る。
同祈念館では、こうした貴重な体験記を伝えていくため、手記や黒本を生かした取り組みが行われている。10年からは毎年、テーマ別の企画展示を実施。
9回目となる今回は「女性たちの原爆」をテーマに、松本さんをはじめとする被爆女性の体験記をパネル化し、女性であるがゆえに味わった苦悩や原爆の惨状、平和への思いを伝えている。
また、ボランティア団体が被爆体験記の朗読を行っている。14年に発足した「被爆体験を語り継ぐ 永遠の会」(大塚久子代表)。大塚代表は体験者ではないが、「被爆者の“代弁者”として、平和への思いを伝えていきたい」と語っている。
長崎市では、被爆者の体験や平和への思いを語り継ぐ伝承者「家族・交流証言者」や被爆体験記の朗読ボランティアの養成を支援。国も昨年度から、広島、長崎両市の伝承者や朗読ボランティアを全国に派遣する事業を開始し、派遣活動に伴う交通費を助成している。公明党は、これら被爆者の派遣事業に対する支援の充実を推進してきた。
写真や英語で詳しく
長崎平和推進協会
“自分の言葉”で発信
「これは私の同級生です。一発の原爆で、ついさっきまで一緒にいた友の命が奪われた。こんな悲惨なものはない」。長崎平和推進協会の写真資料調査部会メンバー、丸田和男さん(87)は、爆心地近くで被爆して、焼死した少年の写真を来場者に見せながら、怒りを込めて訴え掛けていた。
被災写真の収集や整理を担う同部会は7月29日から、写真展「写真で見る被爆体験記」を国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で開催している(今月19日まで)。
祈念館に寄せられた手記から部会として、10人の手記を選定。手記内容に近い写真を部会自身や長崎原爆資料館が所蔵するものから約50枚選び、展示している。手記と写真を組み合わせた展示は、今回が初めてという。
丸田さんは「被爆手記に基づく写真を紹介するとはいえ、友人、知人が殺害された写真を見るのは辛い」と吐露。しかし、「生存者として、原爆で亡くなった友や犠牲者の分まで、伝えていかなければならない」と決意を持続している。
美穂子夫人(右)を相手に英語による被爆体験講話を練習する計屋さん
一方、被爆体験講話を行う同協会の継承部会では今年4月、被爆者の末永浩さん(83)と計屋道夫さん(82)が中心となって、「英語研修班」を設置した。
研修班のメンバーは、県内の大学に通う留学生に対して、英語での被爆体験講話を行っている。6月には、長崎大学医学部の留学生に体験を語った。
被爆者はこれまで、来日外国人に体験を語る際、通訳を介して行ってきた。だが、通訳は時間がかかる上に金銭面での負担も大きく、被爆者の思いがストレートに伝わりにくいなどの課題があった。
末永さんと計屋さんは「英語は学生時代、“敵国の言葉”だったから学べなかった。今になって学び始めたので、時間がかかるし、大変」と苦労を語る。だが、「自分の思いを自分の言葉で伝えられるから、やりがいがある。被爆の実相や平和への思いを国内外に発信していきたい」と意気込んでいる。
原爆投下から74年たち、被爆者が高齢化し、語れる人が少なくなってきている今、その体験や思い、記憶の継承が重要になっている。長崎を最後の被爆地に――。被爆地の挑戦は続く。