公明党トップ / ニュース / p37686

ニュース

2019年8月9日

長崎 被爆74年 命ある限り、伝えたい

核廃絶へ講話1万回超 
“残虐”象徴する城山小を保存 
「生き残った者の責務だから」

被爆当時を思い浮かべながら命ある限り被爆の実相を語り継ぐと誓う下平さん(左)と本田さん

きょう9日、長崎は74回目の「原爆の日」を迎える。被爆者の高齢化が進む中で、被爆の実相を懸命に継ぐ取り組みが続けられている。爆心地から最も近い国民学校に通っていた下平作江さん(84)=長崎市油木町在住=と、その甥・本田魂さん(75)=長崎県時津町在住=。「核兵器がなくなるその日まで」と奮闘する2人の今を追った。(九州支局・高田正好)

関連記事

国内外から訪れる若い世代を中心に、被爆体験を伝え続ける下平さん。30歳代後半から語り部を始めて半世紀近くになる。講話の数は、1万回を超えた。

74年前、下平さんは城山国民学校(現・長崎市立城山小学校)の5年生だった。爆心地から約500メートルに位置し、原爆で児童約1500人のうち1400人近くが犠牲になった学校だ。

下平さんはその日、母にせき立てられ、甥の本田さん(当時1歳)を背負い、妹の手を引いて防空壕(爆心地から約800メートル)へ逃げた。

朝から鳴り響いていた空襲警報が突如止み、他の皆が防空壕の外へ出た。だが下平さんたち3人は防空壕の中で母を待つことにした。「何があっても防空壕を出るな」との兄の忠告を覚えていたからだ。

壕の入口から強烈な光を見たのはその時だった。下平さんたち3人は爆風で吹き飛ばされ、意識を失う。その後、壕の外へ出ると、辺りは黒焦げの死体だらけ。一瞬にして街は消滅していた。下平さんは原爆で母、姉、兄の命を奪われた。妹はその後、被爆の影響か、患った盲腸の手術の傷口がふさがらず、苦しみに耐えかね、自ら命を絶った。被爆から10年後だった。絶望の中で下平さんは、甥・本田さんを実の弟のようにかわいがり、共に生き抜いてきた。

無残な光景や体験を語る負担は決して、軽いものではない。最近は、付き添いがないと遠出できない下平さんだが、今も年間100回以上の講話を続ける。「同じ苦しみを二度と繰り返させたくない。事実を語っていくことは、生き残った者の責務だから」。

賢人会議が城山小学校の被爆校舎を初めて訪問=2018年11月 長崎市

本田さんは現在、城山小学校の原爆殉難者慰霊会として、同校の被爆校舎の保存・継承活動に携わっている。同学校には被爆による亀裂や焼け跡が一部校舎に残っており、今は被爆資料を展示する“平和発信の拠点”として開放されている。

本田さんには被爆直後の記憶はないが、焼け跡が残った同小学校に入学し、祖父が犠牲者を悼む納骨堂を建てた姿などが心に焼き付いている。今の活動の原点だ。

先月、本田さんは同慰霊会の会長に就任した。一瞬で全てを奪う核兵器の残虐性を“無言”で伝える被爆遺構は、年々、被爆者が少なくなる中で重要性を増している。

昨年秋には、核保有国と非保有国の有識者らが核軍縮の進め方を議論する「賢人会議」が同校を訪問。その歓迎に尽力するなど、本田さんは今、海外への“伝承”にも意欲的だ。

「一時的な運動でなく、続けることが大事」と下平さんと本田さん。その瞳は、命ある限り戦争や核兵器への無関心と闘い続けるという決意に満ちていた。

公明新聞のお申し込み

公明新聞は、激しく移り変わる社会・政治の動きを的確にとらえ、読者の目線でわかりやすく伝えてまいります。

定期購読はこちらから

ソーシャルメディア