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2023年5月11日

震災と戦災、“小さな骨”が語る実相

津波で犠牲の汐凪ちゃんの捜索活動同行ルポ 
福島・大熊町の帰還困難区域へ沖縄から遺骨収集ボランティア 
東日本大震災12年2カ月

東日本大震災の大津波で福島県大熊町の木村紀夫さん(57)は家族3人を失った。このうち次女の汐凪ちゃん(震災当時7歳)の遺骨は一部が見つかったのみで、今も探し続けている。今月3日から6日には、沖縄戦の戦没者の遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(69)が那覇市から同町を訪れ、汐凪ちゃんに心を寄せる全国から来た延べ70人と捜索した。3、4の両日、その活動に参加した模様を報告する。=東日本大震災取材班

■土を削って

発見された汐凪ちゃんの骨の一部を確認する(左から)具志堅さん、木村さん=3日 福島・大熊町

木村さんの自宅は同町熊川地区にあった。そこは、東京電力福島第1原発事故に伴う除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の敷地内で地区の大部分は帰還困難区域である。

立ち入り申請をした参加者は3日午前9時、車で大野スクリーニング場に立ち寄り、一人ずつ積算線量計を受け取った。有人管理ゲートを通り、9時20分、木村さんの自宅跡にほど近い捜索現場に到着した。

今回は、昨年1月に汐凪ちゃんの右大腿骨が発見されたくぼ地を集中捜索。具志堅さんが地形などから遺骨がありそうな場所を推測。「地表を約5センチ、津波堆積物がなくなるまで掘りましょう」と方針を伝えると、13人が小型の片手グワを使い、薄皮をはがすように土を取り除いた。

現場の土は粘土質で削り取るのに一苦労。掘っても掘っても、屋根瓦や衣類の一部が次々と出てくるばかり。小さなスレート片や木片が見つかると骨のような気がしてくる。参加者は、その都度「これは骨ですか」と具志堅さんに判断を仰いだ。

■複雑な胸の内/木村さん「原発事故がなければ/助けられたかも……」

木村さんのもとに戻ってきた汐凪ちゃんの骨=3日 福島・大熊町

午後2時40分、参加者の一人である俳優のキヨス・ヨネスクさん(30)が小さな土の塊の中から、小指大の骨を見つけた。汐凪ちゃんの足の指の基節骨とみられる。

初日の活動を終えて木村さんは「うれしいけれど、(12年前の)3月12日に捜索できていれば汐凪はバラバラで見つかることはなかった」と複雑な胸の内を明かした。

汐凪ちゃんは、紀夫さんの父・王太朗さん(当時77歳)の車で一緒に避難中、津波に流された。2011年3月12日早朝、大熊町は全町避難指示が発令。それまで捜索活動をしていた消防団員が付近で「声を聞いた」と証言している。木村さんは「津波の後も2人は生きていて、原発事故がなければ助けられたのでは……」とも考えている。

■あの日のまま

熊町児童館の前で12年前の出来事を語る木村さん=4日 福島・大熊町

翌4日には、慶応義塾大学の学生団体S・A・L・あじさいプロジェクト(飛川優代表)のメンバー6人も加わり、総勢20人で捜索。午前中、初めて熊川地区に入った参加者4人は木村さんの案内で同地区内を見た。

最初は、木村さんの2人の娘が通っていた熊町小学校へ。校内には入れないが、汐凪ちゃんの机の上には、辞書と大好きだった『こびとづかん』があり、12年前のままだという。

木村さんの長女・舞雪さんは当時4年生で校内にいた。汐凪ちゃんは1年生で、授業が終わり熊町児童館で遊んでいた。王太朗さんは、長女を迎えに小学校に来たが、海に近い自宅にいる家族が気になり、汐凪ちゃんだけを車に乗せ、一緒に津波の犠牲となった。

■てんでんこ

「職員が『自宅は海に近いから津波の危険がある』と汐凪を引き渡さなければ助かったかもしれない。けれども経験もない震災で、その判断を求めるのも酷でしょう」。児童館の前で木村さんは話した。そして「三陸に伝わる『津波てんでんこ』のように災害が起きたら、どう行動するか事前に考えてほしい」と問い掛けた。また、町内の公共施設が再開発のため次々と取り壊されていることを説明し「熊町小学校は3.11の出来事が見て分かる建物。何とか残してほしい」と訴えた。

さらに「原発事故を起こした東京電力が憎いというよりも、私も原発がもたらすものや電気を享受してきたことも事実」と。被害者であり、加害者でもあるような苦悩をにじませる。

「『電気は命を守る』という人もいるが、汐凪は、そのために命を奪われた」と語る木村さんは、いわき市の自宅に太陽光パネルを設置し、電力を自給自足している。「便利さばかりを追わないで、本当にそのエネルギーが必要なのか考えてもらえれば」と望んだ。

■一人を大切に

当初、木村さんは「汐凪一人を探すため、人に手伝ってもらうのはエゴではないか」と考えたという。だが、具志堅さんは「一人を大切にできないと、たくさんの人を大切することはできない」と遺骨収集に協力することを決め、22年1月以降、正月と5月の連休に大熊町を訪問。今回が4度目。

■具志堅さん「犠牲者に心寄せ、戦争、災害の悲惨さ伝える」

沖縄で遺骨収集をはじめたきっかけを学生に語る具志堅さん(左端)=4日 福島・大熊町

具志堅さんは1982年から沖縄県で戦没者の遺骨収集を続けている。県内には、石灰岩の浸食でできたガマ(自然洞窟)が多数点在し、戦時中は住民の避難所や日本軍の軍事施設となり、現在も遺骨が見つかる。

「下半身の骨はきれいに残っているのに、肋骨が見つからない。手りゅう弾を抱いて自決した兵士の骨だろう。現地召集された少年兵らしい骨も見た」。具志堅さんは悲しげな表情で話した後、こう力を込めた。「戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えられるのが遺骨収集の現場。そこは戦争の実相が確認できる場所」

その場所を守るため「沖縄戦跡国定公園内の未開発の緑地や崖地をふるさと納税などを使って県有地にし、ガマの保全に取り組みたい」としている具志堅さん。「遺骨を探すということは、犠牲者に心を寄せる“行動としての慰霊”。それは、この大熊町での活動も同じ」と語る。

木村さんは「津波被害の痕跡と原発事故の課題を目の当たりにし、自分事に受け止められる活動として多くの人に参加してもらい、続けていきたい」と決意していた。

太平洋戦争で日本軍が本土防衛の拠点とした沖縄。首都圏への電力供給で東京電力の原発が立地する福島。平和の構築も、被災地の復興も、犠牲者と向き合うことを忘れてはならない。

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