ニュース
政治を切り開く参院公明党(中)
“日本のかじ取り役”担う
「国民のために」が根幹
参院は、平成最初の1989年参院選で自民党が過半数割れしてから大半の期間で、単独過半数を占める政党・会派が出ていない。そうした中、公明党は、国政の重要な局面で“日本のかじ取り役”を担ってきた。象徴的な取り組みが、キャスチングボート(政策決定権)を担った90年代にある。日本の国際平和貢献に道を開いた「国連平和維持活動(PKO)協力法=現・国際平和協力法」、“日本発の世界恐慌”を回避した「金融早期健全化法」の実現だ。これらの過程などを通じ、野党でありながら国の針路に深く関与した経験が、結果として、現在に至る連立政権参画につながった。
PKO協力法
今や国際貢献で不可欠に
ウクライナ避難民支援でも
政府は19日、ロシアの侵略が続くウクライナの避難民を支援するため、自衛隊機で周辺国に救援物資を輸送する計画を示した。国際平和協力法に基づく「人道的な国際救援活動」として実施される。こうした国際平和貢献が円滑に実施できるようになったのも、30年前に公明党が同法の前身であるPKO協力法の成立を主導したからである。
PKOは、武力紛争の再発防止に取り組む国連の活動で、そこへの日本の参加は国内外から高い評価を受けている。「平成の30年」の検証として読売新聞が2018年に行った世論調査では、日本の社会に最も良い影響を与えた政治的出来事のトップに、PKO協力法の成立が挙げられた。
PKO協力法案は1991年9月に国会提出されたが、成立は困難を極めていた。武力の不行使が前提の活動であるものの、戦後初めての自衛隊の海外派遣となることに反発する世論は強く、「反対のための反対」に終始する最大野党の社会党などが、それをあおった。そうした中で注目されたのが、参院でキャスチングボートを握る公明党の判断だった。
公明党は「何が国民のためになるのか」との観点から、党を挙げて議論を重ねた。「一国平和主義」を乗り越え、日本がさらに世界平和に貢献していくべきとの立場から、自衛隊が現地で紛争に巻き込まれないよう“歯止め”をかける「PKO参加5原則」を明記させた上で、法案への賛成を決めた。
その後、一時は「廃案濃厚」と各紙に報じられる状況となったが、参院審議の最終局面で、停戦・武装解除の監視などを行うPKF(国連平和維持隊)本体への参加を凍結する修正を行わせるなどして合意形成をリード。92年6月15日、PKO協力法が成立した。
国民の8割が支持
同法により日本はカンボジアなど世界各地でPKO参加の実績を積み、今やわが国の国際貢献に不可欠な活動として国民の理解も広がった。昨年度の内閣府世論調査では、PKOについて「これまで以上に積極的に参加すべきだ」または「これまで程度の参加を続けるべきだ」と答えた人は計84.2%に上った。
金融早期健全化法
「公明が日本経済を救った」
1997年11月、日本経済は“沈没寸前”の危機的状況にあった。北海道拓殖銀行、山一証券といった金融機関が相次いで破綻。同7月のアジア通貨危機の影響で不況が深刻化し、日本は未曽有の経済危機に直面する。
市場からは、著しい円安・株安の危険信号が発せられ、財政出動による景気の下支えが求められていた。にもかかわらず、当時の自民、社民、さきがけ3党連立政権は真逆の緊縮財政にかじを切るという過ちを犯した。景気は凍りつき、“日本発の世界恐慌”の恐れが現実味を帯びていった。
98年7月、金融危機の克服を最大テーマとする臨時国会、いわゆる「金融国会」が幕を開けた。最大の焦点は、金融機関の破綻を未然に防ぐために公的資金を注入する「金融早期健全化法案」。すでに単独で政権を担当していた自民党が直前の参院選で過半数を割り込んだため、成立には野党の賛成が不可欠だった。
野党第1党の民主党は無責任な批判を繰り返すばかり。このため、参院で野党第2党の公明党がキャスチングボートを握り、修正を受け入れさせた上で法案への賛成を決断。同10月16日の成立につながった。
公明党が賛成した理由は、銀行と取引のある預金者や中小・零細企業を救うためだ。ここでも「国民のために何が必要か」を根幹に政策判断を行った。同法によって多くの銀行が破綻を免れ、日本経済が底割れする最悪の事態は回避された。
識者から高い評価
同法成立時に大蔵省財務官だった榊原英資氏は退官後の99年7月、テレビ番組に出演し「これで日本は救われた」と強調。著名な経済学者で政府税制調査会長などを歴任した加藤寛氏は、金融危機を脱し、景気が回復基調となっていた2006年10月に、こう振り返った。「公明党の対応が日本経済を救った」と。