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政治を変えた都議会公明党(上)
清潔な政治
金権一掃へリコール署名
65年7月の出直し選で“伏魔殿”を刷新
「清潔な政治」「調査なくして発言なし」「福祉先進都市」――。都議会公明党を語る時、この三つは外せない。今に伝わる公明党の政治姿勢につながるキーワードでもある。3回にわたって都議会公明党の「原点」に迫る。
元々、統一地方選挙で行われていた東京都議選が、なぜ7月選挙になったのか。歴史をひもとくと、腐敗政治の浄化へ敢然と立ち上がった公明議員の闘いに直結する。
1963年4月の統一選。都議会公明党(当時、都議会公明会)は、改選前の3議席から17議席へと大躍進を果たす。清潔な政治を掲げる公明党がまず挑んだのは金権腐敗の一掃だ。“伏魔殿”と呼ばれていた都政の刷新へ、17人の公明議員は不正をただしていった。
65年3月に起こった議長選出を巡る贈収賄事件は、十数人もの議員が逮捕される前代未聞の大疑獄事件に発展する。「直ちに議会を解散し、都政を刷新せよ!」。火を噴く勢いで公明党は舌鋒鋭く斬り込む。都議会の出直しを求め、都民の怒りも頂点に達した。
公明党は徹底して都政の膿を出し切り、都民からの信頼を取り戻す闘いに立ち上がる。4月24日には、党は都議会解散を求めるリコール(解散要求)署名運動の実施を決めた。
議会解散は議員全員の辞職が条件となる。これを突き付けられた、自民党の一部議員や共産党議員2人は辞表提出を拒むなど各党の対応は及び腰だった。
公明党が主導した署名運動は、都民の支持を得て急速な広がりを見せた。6月には議会を解散に追い込み、翌7月には“出直し選挙”が行われた。
都議会公明党は、この選挙で解散時の17議席から大きく6議席を上積みし23人が全員当選する大勝利を勝ち取った。
「宴会政治」追放の口火切る
リコール署名運動に前後し、公明党は都政の「宴会政治」追放にも斬り込んでいく。
その当時、都議会では委員会や都外への視察の後、議員たちによる宴会が慣例だった。宴会の回数が委員会の開会数を上回るといわれるほど横行し、血税が当たり前のようにムダ遣いされていた。
公明議員がこの問題を取り上げようとすると周囲からは「時間がないぞ、早くしろ」との心ないヤジが飛んだ。余計なことをするなと声を荒らげる議員もいた。
潮目が変わったのは、63年の都議選で公明党が17議席を得てからだ。出席する資格を得た都議会の幹事長会で公明党は宴会政治の廃止を強く主張。選挙直後の6月定例会を前に、都政史上初めて各党間で、「宴会政治の自粛申し合わせ」を確認した。
都議会発の宴会政治追放のうねりはその後、全国の地方議会にも広がっていく。各地の公明議員の追及によってムダ遣いの実態が相次ぎ明るみに。大幅な予算の削減にもつながり、世論も喚起していった。都議会公明党の闘いが「発火点」となったのだ。
ムダ削減、身を切る改革も
「清潔な政治」の実現には、行政のチェック機能強化と税金のムダ削減も欠かせない。都議会公明党は、一貫して行財政改革を推し進めてきた。
“天下りの温床”とされた都の「監理団体」(外郭団体)の改革はその一つだ。都の業務をサポートする同団体に、都は財政的な支援を行っていたが、1993年度には72団体を数え、都財政を圧迫していた。都議会公明党は整理統合を強く主張し、半数以下まで削減した。
2006年、民間企業の会計手法にならい、全国で初めて導入した「新公会計制度」も公明党が主導した。資産やコストなどがガラス張りになり、03年度末には約1兆円にまで膨らんでいた“隠れ借金”は、07年度末までに解消した。
この制度などを活用し、毎年の予算編成時に不要不急な事業を見直し、再構築する「事業評価」も06年にスタート。この結果、21年度予算案では約1110億円の財源を確保。都財政の健全化をけん引している。
「身を切る改革」も公明党の真骨頂だ。16年11月、他党に先駆けて提案し、17年度からは議員報酬の2割カット、政務活動費(政活費)の月額10万円減額などを断行し4年間で約27億円の経費を削減。コロナ禍で苦しむ都民がいることを踏まえ、21年度も継続を訴える。18年には、政活費の収支報告書や会計帳簿、領収書などの写しのインターネット公開も実現し、「見える化」を進めた。
生活者目線で常に改革の先頭に立つ。ムダ削減に徹する“旗振り役”こそ、都議会公明党の代名詞にふさわしい。