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東日本大震災10年 被災3県公明議員の手記(上)
寄り添い続ける。
岩手 大船渡市 森操 議員
わが家を拠点に救援活動
3月定例会が開かれていた、あの日の午後2時46分。立っていられないほどの激しい揺れに議会は直ちに中断しました。私はすぐさま住民の安否確認へと飛び出しました。
やがて押し寄せた大津波が、海沿いに立ち並ぶ魚市場や水産加工工場をのみ込み、中心市街地も大きな被害に見舞われました。幸いにも、わが家は津波を免れ、玄関前には「公明党対策本部」の看板を掲げ、救援活動を開始。自宅は災害ボランティアの活動拠点として提供しました。
当初、全国からの支援物資は避難所に集中した一方、自宅などに身を寄せた市民には十分に行き届かず、水や食料すら手に入らないことも。私は、こうした在宅避難者へ支援物資を届けるボランティアのサポートに走りました。
避難者に提供される食事は、しばらく炊き出しのおにぎりと飲み物だけ。避難生活が長引くにつれ、体調不良を訴える人が増えてきたことから、6月定例会で栄養バランスに配慮した「弁当配給」を提案。結果、おかずも提供されるようになったのです。その後、避難所を訪れた時、「本当に助かった」と声を掛けられたことは今でも忘れられません。
いつ襲ってくるか分からない自然災害に備え、避難所運営マニュアルの見直しや救援物資の確保に取り組みます。
自宅の玄関前に「公明党対策本部」の看板を掲げ救援活動に奔走した森議員=2011年3月24日 岩手・大船渡市
岩手 釜石市 山崎長栄 議員
自宅失うも住民のもとへ
小雪舞う、寒い日でした。10年前の3月11日、経験したことのないすさまじい揺れに津波の襲来を直感。市消防団員の私は、市役所から水門の閉鎖に向かったのです。途中、巨大津波に追われるも間一髪、高台に避難。安堵もつかの間、そこから見えたのは、真っ黒な波にさらわれていく自宅のある片岸町でした。
津波が引いた直後から、救援活動に奔走する日々が始まりました。
2カ月後、被災者から次々と困り事が寄せられる中、津波で弟を亡くした女性から相談を受けました。「遺族に支給される災害弔慰金の手続きに行ったら、兄弟には支給されないと断られた」と身を震わせながらの訴えでした。
私は「こんな理不尽な制度でいいのか」と公明党の国会議員に伝えました。これをきっかけに法改正が実現し、兄弟姉妹にも弔慰金が支給されるようになったのです。
市消防団では8人の団員が殉職しました。彼らを決して忘れまいと顕彰碑を建立。仲間を失った悲しみを繰り返さないため、団員には「まずは自分の命を守れ。それができなければ他人の命は守れない」と今に伝え続けています。
また、震災の翌年には水門等の遠隔操作システムの導入を県知事に強く要望し、防潮堤の整備にも心血を注いできました。今後も命を守る施策の実現に全力を尽くします。
被災状況の把握や避難住民の激励に走る山崎議員(右)=2011年5月18日 岩手・釜石市