水の都大阪の歴史
あきひろ日記「夏の自由研究」大阪平野は海だった・・・けど
大阪平野は、大阪府の大部分と兵庫県南東部を占め、大阪湾沿岸に広がる近畿地方最大の平野。面積約 1600平方キロメートル。
「大阪湾環境データーベース」に、古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾(約7000~6000年前)が広がり、上町台地が半島のように突き出ており、現在とは大きく異なる地形であったと。
昔の地形図を見ると、私が生まれ育った四條畷や今住んでいるところも海だったようです。枚方市辺りが北限とも。
この上町台地北側の砂州は、その後も北へ伸び、縄文時代中期には潟(約3000~2000年前・縄文時代「河内潟」)の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖(約1800~1600年前・弥生時代「河内湖」)ができあがったそうです。
そして、古墳時代(3世紀中ごろから7世紀末)に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌することに。すごく興味深い歴史です。
データーには、仁徳天皇(290年~399年)が行った堀江の開削は、洪水対策と水運発達に役立ったと。大阪は、645年に始まる「大化の改新」により歴史の表舞台へ。中でも、難波津(なにわつ:古代の港湾施設の名称で、現在の中央区付近)は国家的な港として外交の基地、献納物の中継点・集散地、国家的水上交通のターミナル、警察、軍事の拠点として発展。初期の遣唐使船もここから出発していったそうです。
さらに、「水都大阪」の資料を見ると、河内湾の時代は縄文時代前期前半と記されており、海水面が現在の水位より1~2m高く上昇し、河内平野を覆った水面が、東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで広がっていたと。たぶん、高槻の中心市街地辺りまでは海だったのでしょうね?
高槻市のホームページ、旧石器時代~縄文時代(郡家今城遺跡)には、2万年前の旧石器時代、人々はゾウやシカなど獲物の群れを追い、移動する生活を送っていたよう。1万2千年前になると土器がつくられ、煮炊きして食事できるようになり、集団でムラを営む縄文時代の幕開けと。弥生時代には、大陸から伝わった稲作は短期間に日本列島に広まり、生産の拡大が富と権力を生み出したと。そして有力なムラが多くのムラを従え、やがて邪馬台国のようなクニが各地に出現したと記されています。
郡家、安満、古曽部、芝谷辺りで、私たちの祖先は生活していたようですね。
他の資料では、邪馬台国の時代(3世紀後半、古墳時代ですね)に築造されたとみられる安満宮山古墳から出土した青銅鏡が魏の国から海を渡り卑弥呼に贈られた物のひとつとみられ、当時この地が海運を通じて外交の重要な役割を担っていたものと推察されています。
また、時は思い切り進み、安土桃山時代(1573年から)、海や川を活かして守りの堅固な大坂城を築いた豊臣秀吉。城下町を整備し治水対策まで力を入れ町が整備されていった。整備された町は商人が行き交うようになり大阪は繁栄。
大昔から現在まで、大阪は水とともに発展してきたのですね。「水の都・大阪」といわれる所以ですね。
夏の自由研究、いっぱい調べて、好きなことを勝手に書き綴りました。長い長い歴史の中で、大阪の地は、形や風景、生活を大きく変えてきました。自身が暮らす地域の歴史にも感動しています。
そんな思いの中で、たぶん変わっていないものも。昔々、祖先が見ていた同じ空と雲を、今、私も見ているのかなと想うと、何だかワクワクしてきます。
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