検索結果: 高山右近
  • Home
  • あきひログ
  • プロフィール
  • 政治信条
  • 目指す取組
  • 安全実績
  • 安心実績
  • 議会活動
  • 地域活動
  • 応援song
  • 自由帳
  • ごきんじょニュース
  • +プラス
  • 広報活動
  • あきひろ物語
  • Home
  • あきひログ
  • プロフィール
  • 政治信条
  • 目指す取組
  • 安全実績
  • 安心実績
  • 議会活動
  • 地域活動
  • 応援song
  • 自由帳
  • ごきんじょニュース
  • +プラス
  • 広報活動
  • あきひろ物語

高槻城主 高山右近像

2025年3月29日

あきひろ日記 いいね高槻 高槻城公園南エリアを散策 新たな出会い

過日の夕暮れ時、高槻城公園南エリアを散策していると、高山右近像に出会いました。「高山右近」の案内板をまじまじと…

高槻城・本丸のあった敷地は大阪府立槻の木高等学校。二の丸の敷地は高槻城公園(中央エリア) とか

現在の高槻城公園南エリア、芸術文化劇場南館のある「中央エリア」に加え、旧市民会館敷地等を「北エリア」として公園区域に編入し、公園区域を拡大します。

第一中学校、府立槻の木高等学校敷地等については、「中長期計画エリア」として、各施設の長期的な整備も視野に入れ、再整備の検討を行います。

皆さまの憩いの場となる大きな公園に期待・・・右近さんも城主の頃、この辺りを散策したのかな?

高山右近  マニラ <あきひログ

高槻城公園整備計画 <市ホームページ

高槻城公園整備事業について 文教にぎわい委員会<あきひログ

*

(案内板に) 高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552) ごろに摂津高山(現豊能郡豊能町) で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守[たかやま ひだのかみ] は、元亀4年(1573) 主君和田惟政[わだ これまさ] の子、惟長[これなが] と対立し、やがて右近は高槻城主となりました。

摂津国[せっつのくに] を束ねる荒木村重が織田信長から離反した天正6年(1578) 、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、右近に降伏すをすすめました。降伏しなければ、キリスト教を弾圧するというのです。

右近は村重へ子どもや妹を人質にだしており、苦悩の末に開城しました。その後は、羽柴(豊臣) 秀吉の下、山崎合戦などで功績を挙げました。

天正2年(1574) 、右近は高槻城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の布教に努めました。宣教師の記録によれば2万5千人の領民のうち1万8千人がキリシタンになったといわれています。

高槻城主として約12年間を過ごした後、右近は播磨船上城[ふなげじょう] (明石市) に移封され、秀吉がバテレン追放令を発した天正15年(1587) には、棄教の命令を拒否し、領地を没収されました。

その後、前田利家に仕えることになり、金沢へと赴きますが、禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614) 10月に国外追放処分を受けました。

マニラに向かった右近は、到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年(1615) 2月3日に亡くなりました。

文化人でもあった右近は、千利休の高弟「利休七哲」の一人、「利休極上一の弟子な也」とうたわれています(高槻市教育委員会/現在は、歴史にぎわい推進課)

右近さん、21歳頃、高槻城主になり、マニラでは当年63歳で…
2019年、私が高槻市議会議長58歳の時に、マニラ市・高槻市友好都市提携 40周年記念事業において折、マニラでもお会いしましたね。

その約3年前は、高槻市議会副議長の時には、「OSK日本歌劇団」の表敬訪問をお受けし「香月連」さん演じる、ステキな高山右近さんともお会いしました。その後、高槻城公園芸術文化劇場北館(当時:現代劇場) において開演。高山右近伝 <あきひログ

↑右近像の背景には、高槻城公園芸術文化劇場(樹木の向こう側) と高槻市役所(右近像の左側) が見えます。(高槻城公園南エリアから)

高山右近列福記念献茶弥撒

2017年4月25日

高槻城主 高山右近列福記念

キリシタン大名高山右近(高槻城城主1573~1585)がカトリックの聖地バチカン市国から福者の認定を受け、過日、列福(宣言)式が大阪で開催されたとお聞きしましたが、高槻でも、OSK日本歌劇団の皆さんによる福者認定記念公演「高山右近伝」や高槻市民有志の皆さんによる“高山右近フェスタ”「高山右近美術展2017」等が開催。

本日は、「高山右近列福記念献茶弥撒(ミサ)=カトリック高槻教会」と「高槻城主 高山右近列福記念“千 玄室大宗匠(せんげんしつ だいそうしょう) 特別講演”=高槻現代劇場」にお招きをいただき、貴重な体験に大変、感動をした次第です。

高山右近は武人であり茶人。千利休の高弟の一人。列福を祈念して“裏千家 鵬雲斎(ほううんさい) 千 玄室大宗匠”ご奉仕の献茶弥撒が厳粛に開催されました。

大司教のごあいさつでは「和敬清寂(わけいせいじゃく)」のお話し。調べてみると元々は「謹敬静寂」茶祖 村田珠光が茶道の心を言っていたそうですが、この言葉を千利休が一字を改めた言葉だと。相手を敬うことにより和になり、居心地の良い清々しい関係が保てると。愛や平和、キリストの教義に通じるのか、茶道との結びつき。改めて感動しました。

また、「キリシタンと茶の湯」と題した“千 玄室大宗匠”の 特別講演。1923年94歳。私が語るのは大変失礼なのですが、品位の中にも、飾らないお言葉と年齢を感じさせない姿勢にも感動致しました。

“ジュスト高山右近”すべてを捨ててまでも貫き通した信仰への道。その信念が、400年経つ今、“福者”の認定へ。
右近は多くの人々に愛されているんだなぁと感じました。

戦国時代の多才なキリシタン大名(高槻市の観光パンフレットに) <あきひログ

20170425_015359153_iOS

高山右近美術展2017

2017年3月3日

祝 高山右近 列福 “市民のつどい”

高山右近がカトリックの「福者」に認められたのを祝って、高槻市民有志の皆さんによる“高山右近フェスタ”「高山右近美術展2017」が開催され、昨日、数々の素晴らしい作品を観賞させていただきました。[3月1日(水)~6日(月)11時~18時・最終日は17時、ギャラリーTSUNAGU]

会場には、切り絵、織物、水彩、油彩、日本画、水墨、等々が展示されていましたが、本当に力作揃い。中でも目をとめたのは、「蛍・右近の星」(織物)、お聞きすると糸から染色し、何枚も重ねられた作品。薄らと見える山脈に美しく光る川、素晴らしい自然の中に蛍が。作品の奥深さに感動。藍染とのこと。「青は藍より出でて藍より青し」そんな言葉を思い出しました。

写真は右近12歳、洗礼を受けている姿とか。

・

キリシタン大名高山右近(高槻城城主1573~1585)がカトリックの聖地バチカン市国から福者の認定を受け列福(宣言)式が大阪城ホールで行われたそうです。右近さんが亡くなられてからの福者認定。信念を貫いた姿勢に歴史は動いたのですね。すごいことです。

20170302_075409818_iOS

高山右近伝“乱世なればこそ、永遠の勝利を”

2017年1月7日

福者認定記念公演「高山右近伝」 OSK日本歌劇団

舞台は400年前の戦国時代。忠義か裏切りか。選んだ道、それは“信念”だった。

高山右近の半生。OSK日本歌劇団の皆さんと主演・香月蓮さんの迫真の演技に大感動しました。

明日の命もわからない戦国時代。和田惟長(わだこれなが)の嫉妬と疑念に、死闘する高山右近。大怪我の中で確信したデウスへの信仰心。快進撃を続ける織田信長と摂津の支配者・荒木村重(あらきむらしげ)のどちらにつくのか!? 悩みに悩んだ右近の答え!? 裏切り者と言われようとも、デウスを信じる民の生命を守るため、全てを捨てて信仰心を貫き信長のもとへ。そして事態を収拾。

「心の師となるとも心を師とせざれ(あなた自身が心の師匠となって、うまく心を諭し導くことがあっても、心そのものを師匠のように大切なものと思って、それに流されたり翻弄されてはいけない)」とのセリフも…

福者認定(カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者 に与えられる称号)を記念しての公演。本当に素晴らしい舞台でした。

物語の中で、「高槻」が言葉として何回でてくるのだろう(笑)と期待しましたが、物語の内容と真剣な演技に涙が止まりませんでした。終演後、濱田剛史市長もご挨拶されましたが、まさに現代劇場のある場所が高槻城の敷地内、高山右近が苦悩しながらも信念を貫き通した場所。感動です。

400年の時を経て一人の人物の生き様を見た思いです。OSK日本歌劇団の皆さん、香月蓮さん、大成功の公演おめでとうございました。そして、お疲れ様でした。

高山右近 <あきひログ

20170106_051211759_iOS

歩道の整備 さらに

2025年6月9日

2年前の市民相談が実現 高槻城公園の整備に期待

2年前の2023年5月頃、市民相談をいただいた「歩道」の修理が高槻城公園の一部として整備されました。(№909 城内町)

場所は、高山右近像がある公園南エリヤ、槻の木高校の正門横辺り。「高槻城跡」の遺跡の前です。

これまでも美観を目的にされた歩道でしたが、分割タイルは、部分的な破損やガタツキが課題で、市民の皆さまから通報をいただき補修要望を行ってきました。

公園南エリア周辺もさらに更新されることを期待しています。

高槻城公園の整備計画をご紹介します <市ホームページ

ファミリーハイキングで9800歩

2024年11月11日

秋の健康づくり 参加された皆さまと色々お話しができて楽しい一日 m(_ _)m

10日(日) 楽しみにしていた“堤・桜台コミュニティ連絡協議会” 主催の「秋の健康づくり ファミリーハイキング」に参加しました。心配された天気も青空のスタートです。

お孫さんと一緒のおじいちゃん、おばあちゃん、ご家族一緒の皆さん、ご夫婦やお一人でもご参加される高齢者の方。私たち夫婦もご一緒させていただきました。(妻は健康推進リーダーの一人)

健康推進リーダーの皆さまも共催し、一緒に健康体操から。皆さんお元気で笑顔がいっぱい。65歳以上の方には、健康パソポートの対象にもされてスタンプをもらわれている方も・・・高槻いいね。

目的地は「今城塚古代歴史館」です。さぁ、皆さん元気はつらつ、ハイキングに行きましょう。健康な身体づくりを目指しましょう!!

*

(高槻市の情報) 市が発行する記録手帳、ますます元気!「健幸パスポート」にスタンプを押印して貯めていきます。

介護予防教室・特定健診など「健康」に関する部門は1回の参加につき10ポイント、けやきの森市民大学・高槻市民音楽祭などの「生涯学習・文化・芸術」に関する部門は1回の参加につき5ポイントたまります。一方「ボランティア部門」「趣味活動部門」「もてもて筋力アップ体操チャレンジポイント」では、ご自分で実施内容を記載することによりポイントがたまります。

一定のポイントがたまると、市内の障がい福祉サービス事業所で製作された記念品との交換や民間の保育施設への寄付ができます。記念品を通じて障がい者の自立を、寄付を通じて次世代の育成を支援することができます。交換できるポイントの上限は300です。

令和6年度から新たに「すこやかテラス初めて行ってみた特典」を開始します。利用登録していないすこやかテラスで利用登録していただくと年に1回10ポイントがたまります。令和4年度から開始した「お友達紹介キャンペーン」も継続中です。この機会にお友達と一緒にすこやかテラスに行って健康づくりのための取り組みを始めてみませんか?

一般質問からはじまったような・・・
介護保険制度を活用した高齢者のボランティア活動の支援について/保健福祉部/2008年6月27日

市議会・会議録 介護保険制度を活用した高齢者のボランティア活動の支援について

*

(SNSより) 今日は地域の“ファミリーハイキング” の日、#登町中央公園 に集合。晴天に感謝。準備運動して、さぁ出発❗️楽しい一日に*\(^o^)/*

(市の情報) 登町中央公園は、団地の中にある、開放感のある公園です。公園内には大きな木があり、季節を感じながら遊ぶことができます。

*

(SNSより) ファミリーハイキング・スタート、JR南→北→西口(オープン前の関西将棋会館を見ながら) →西国街道(芥川・歴史の散歩路) を通り→芥川へ

つづく*\(^o^)/*

(市の情報) いよいよ関西将棋会館が12月3日(火) にグランドオープンすることに決定しました。営業時間などの詳細は関西将棋会館ホームページをご覧ください。関西将棋会館ホームページ<外部リンク>

西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。

京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の政治・経済に大きな影響を及ぼしました。

現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。

芥川は、市を流れる淀川水系の一級河川。 名称の由来は阿久刀神社の荘園の川、阿久刀川から転じたものであると言われる。

*

(SNSより) →#芥川(#こいのぼりフェスタ の会場で休憩)→清福寺交差点「#素盞嗚尊神社(すさのおうのみことじんじゃ)・郡家新町」近くを通過→#いましろ大王の杜(#今城塚古代歴史館 と #今城塚古墳 )を見学。#継体大王 のお墓を守る埴輪群も→郡家本郷から帰路 #はにたん ありがとう❗️ 今日は約8500歩

(市の情報) こいのぼりフェスタ1000は、子どもたちが健やかに育つことを願い、高槻の都市シンボルである芥川の河川愛護を目的に平成4年から開催されています。

素盞嗚尊神社について、創建の年代は不詳だが、古くは神郡社と称していたようです。ここは奈良時代の寺跡(芥川廃寺) と見られており、境内にある手水鉢(ちょうずばち) はその塔心礎(とうしんそ) とされています。かつては塔がそびえ、堂々たる金堂(こんどう) が建てられていたと推測されています。近くに史跡嶋上郡衙跡(しせき しまがみ ぐんがあと) があります。奈良・平安時代 役所跡です。

いましろ大王の杜は、史跡今城塚古墳と今城塚古代歴史館があります。古墳は、531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。歴史館は、三島古墳群の発掘調査で判明したものをジオラマ模型や映像を用いながら解説、豊富な出土品を展示、歴史遺産ネットワークの拠点として情報発信、歴史体験と学習の場。

*

(SNSより) 郡家本郷→JR高槻駅北口到着。

こちらでファミリーハイキングは終了・解散。皆さまお疲れ様でした。役員の皆さまありがとございました。

参加された皆さまと色々お話しができて楽しい一日でした。m(_ _)m

晴天でよかったですね。帰宅後チェック約9800歩でした。

芸術文化劇場内の広さに驚き

2022年9月30日

高槻城公園芸術文化劇場 令和5年3月のオープンを予定

61954A39-041D-4A16-8DAF-D27352C4CD2728日(水)、「高槻城公園芸術文化劇場」を市議会として視察。

(市ホームページより) 高槻市では、老朽化した市民会館に代わる新たな文化施設の整備を進めています。

新たな文化施設は、「高槻城公園芸術文化劇場」として、令和5年3月のオープンを予定しています。

かつてキリシタン大名高山右近が城主を務めた高槻城二の丸跡に、高槻城公園と調和した本市の新たなシンボルとして誕生します。

1,500席規模の大ホール、200席の小ホール、大・中・小のスタジオ・練習室のほか、カフェや駐車場などの整備を予定しています。

高槻城公園芸術文化劇場 公式サイト<外部リンク>

*

外観から見る印象とは違い、芸術文化劇場内の広さには驚きでした。建物は一定完成、現在は周辺の工事が進められています。あと半年、本当に楽しみですね。

たかつき2020

2020年11月25日

令和2年度 市政概要の資料より

A072975C-7E33-4739-84C4-50EF39C8B1AC議会事務局発行の「令和2年 市政概要 たかつき2020」を配布していただきました。ページをめくると目次から。

市勢、市域の変遷、令和2年度主要施策、市議会概要、議会活動状況、議会費予算等、総合戦略、総務、市民生活環境、健康福祉、主な施設一覧等々が記載されています。

市ホームページには、現在は令和元年分までの市政概要が公開されているようです。

はじめに注目したのは、市勢、郷土のありさま。小史として、高槻(高月)の名前が歴史上登場したのは、鎌倉時代(1333)から南北朝時代(1336)。

縄文(16,000前)・弥生(紀元前10世紀頃)の昔から営まれてきたこの地の人々の暮らしが、この時に高槻の集落として実を結んだと“郷土のありさま”の冒頭に記されていました。

今回は「高槻」の歴史概要と市域の変遷を確認してみたいと思います。

南北朝時代は、足利尊氏の配下、入江左近将監が城館を設け、戦国時代(1467)には、キリシタン大名の高山右近が高槻城主に。江戸時代に入り、慶安2年(1649)に永井直清が高槻城に封じられ幕末まで発展したとか。

明治2年(1869)6月
版籍奉還で最後の藩主、永井直諒が藩知事に。

明治4年(1871)7月
廃藩、11月に府県改廃によって高槻県は大阪府に編入

明治7(1874)年
城郭破却

明治22年(1889)4月1日
町村制施行、大阪府島上郡高槻村、同芥川村、同清水村、同磐手村、同大冠村、同如是村、同阿武野村、同五領村、同三箇牧村、同富田村、京都府南桑田郡樫田村が成立

明治29(1896)年4月1日
島上郡と島下郡が合併し、三島郡となる。

明治31年(1898)10月14日
高槻村は町制を施行し、高槻町となる。

大正14年(1925)11月1日
富田村は町制を施行し、富田町となる。

昭和4年(1929)1月1日
芥川村は町制を施行し、芥川町となる。

昭和6年(1931)1月1日
高槻町に芥川町、清水村、磐手村、大冠村が合併

昭和9年(1934)9月1日
高槻町に如是村が合併

昭和18年(1943)1月1日
市制施行、高槻市となる。人口約3万1,600人、64・3平方キロメートル。

昭和23年(1948)1月1日
三島郡阿武野村合併

昭和25年(195011月1日
三島郡五領村合併、人口37,714人

昭和30年(1955)4月3日
三島郡三箇牧村合併、人口54,028人

昭和31年(1956)9月30日
三島郡富田町合併

昭和33年(1958)4月1日
京都府南桑田郡樫田村合併

昭和35年(1960)
人口急増、人口79,043人、40年、130,735人、45年、231,129人、50年、330,570人、60年、348,784人

平成7年(1995)
人口362,270人 ※

平成15年(2003)4月1日
中核市に移行

平成17年(2005)
人口351,826人

平成27年(2015)
面積 105・29平方キロメートル ※

令和2年(2020)9月末
市ホームページより、人口351,133人 ※

◇

現在までの高槻市の変遷は、村から町、市へと発展していく上で、多くの合併や調整がされてきたことがわかりました。今では本市の人口は約35万人、私たちの郷土は、様々な歴史を経て大きく変化してきたんですね。※別資料より引用

安全・安心のまちをつくる新年度を

2020年2月11日

あきひろ日記 建国記念の日に思う

20200211_061025728_iOS今日は「建国記念の日」、晴天の祝日。午後から地域内6箇所で街宣活動。お声かけいただいたり、ごあいさつくださった皆さま、本当にありがとうございました。

国ができ、まちができて、さらなる“安全・安心のまちづくり”を目指し、公明党の議員として誠心誠意、全力で頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします。

さて、“建国記念の日”、わが国では、実際の建国日が明確ではないため、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として「建国記念の日」が定められています。

2月11日は、日本神話の登場人物で初代天皇とされる「神武天皇(じんむてんのう)」の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日(旧暦)とあり、その即位月日を明治にグレゴリオ暦に換算した日付だそうです。

日本神話、伝説上の人物、“神武天皇”は奈良盆地とその周辺を征服して、はじめて天皇位につきました。

しかし、大和で反対勢力に苦しめられていたことから、道臣命(みちのおみのみこと)と可美真手命(うましまぢのみこと)を東征軍に任命。反対勢力の征伐に成功したことから、三島の土地を与え、その軍隊の旗印が「月」をかたどっていたので、ご褒美にもらった土地を「高月」と呼ぶようになったとか。

国のはじまりから、“たかつき”との縁を感じます。

また、「高月」が「高槻」に。「槻」(欅:けやきの古称)の大木があり、戦国時代に「槻」の近くに本陣が立てられたことから、月を槻に変えたとされています。

今では35万人の中核市。高槻はどんな歴史を刻んできたのでしょう。

高槻に人が住みはじめたのは、約2万年前の“旧石器時代”といわれ、その後、“弥生時代”になり、安満遺跡では三島地方で最初の米作が開始されました。

古墳時代。現在、日本でも有数の古墳群地帯で、真の“継体天皇陵”とされる“今城塚古墳”など、古墳時代初期から末期までの各時代の古墳が残っています。

また、日本最古(5~6世紀)の最大級の埴輪工場。今も“新池遺跡ハニワ公園”として保存・公開されています。 7世紀末に神峯山寺が開創、「たかつき」の地名が初めて史料に出てきたとか。

鎌倉時代にあたる14世紀ごろ、奈良の春日神社の荘園であった「安満庄」の耕地目録の中に、「麦下地 高月二町十歩」「野畠 高月七反半」と記されているそうです。

室町時代には、富田が一向宗(浄土真宗)の北摂布教の拠点として栄え(この頃の史料には「高槻」の地名が)、戦国時代には、“三好長慶”や“高山右近”が拠点としていました。

安土桃山時代には、高槻領主高山右近が“キリシタン大名”だった影響でキリスト教が広がり、江戸時代には山陽道の流れをくむ西国街道が参勤交代などに利用され、芥川宿は六宿駅の一つとして栄えたそうです。

富田は8,000石余りを醸造する酒蔵として栄え、日本を欧州に初めて紹介した“オランダ商館付医師エンゲルベルト・ケンペル”は、1691年、長崎から江戸に行く途中、大阪から守口、枚方、橋本、淀、京都の順に旅をし、昼食をとった枚方から高槻を望み、風景を記録したとか。

IMG_7011近年、明治時代には隠れキリシタンの里として発展。大正そして昭和になり、1970年代以降、大阪市と京都市のベッドタウンとして宅地開発が進み人口が急増。

1975年には30万人の大台に到達。その後も順調に増加を続け、1995年には362,270人を記録。

しかしその後、少子高齢化等の進展により、人口は減少に転じ、2005年には351,802人となりました。ただ大阪府の調査・推計では2004年初頭を境として高槻市の人口動態は社会減から社会増に転じており、依然続く自然増と併せて人口動態そのものは年々改善していると資料に記されています。

これは、JR高槻駅周辺の再開発によって市中心部の商業機能が向上し、市内の生活がより便利になったため周辺地区からの流入が増えたことが理由と見られています。

“建国記念の日”、紀元前660年から2020(令和2)年。国ができ、まちができ、安全・安心のまちをつくる新年度を迎えます。

“たかつき”でも、いよいよ3月定例会。濱田剛史市長の施政方針大綱の発表から、各派の代表質問。ともに、市民福祉向上につながる市政を目指すべく、全力で取り組んでいきたいと思います。

心と心を結ぶ友好交流

2019年12月30日

マニラ市・高槻市友好都市提携 40周年記念事業

IMG_2907

2019年もあと1日。この12月には、高槻市議会としてマニラ市友好訪問団を結成し、12月19日から22日までの 4日間、友好訪問事業を行いました。5年ぶりの訪比事業となります。

1979年、マニラ市と高槻市は、高槻城主“高山右近”を縁に“姉妹都市提携”を結び、今年2019年で「40周年」を迎えました。

マニラ市庁舎の表敬訪問とともに、高山右近像のある“プラザディラオ(日比親善公園・パコ公園)”において、同市主催による“高山右近献花式”が盛大に開催され、また、マニラ市で制定された“12月21日”(400年前に右近がマニラに到着した日)には「高山右近をしのび400年の歴史をつぐむ集い」を本市主催で開催することができ、訪問団全員で献花をさせていただきました。

今回の友好訪問事業では、現地の皆さまに大歓迎をいただき、友好と親善の成果を、今後とも“心と心を結ぶ友好交流”が継続できるように努めていきたと感じるところです。

訪問団として、マニラ市で友好交流の足跡を残せたこと、団長として友好交流の役割を果たせたことに、すべての関係者の皆さまに感謝を申し上げる思いです。

マニラ市と姉妹都市提携 <高槻市議会 50年史より(「高山右近をしのび400年の歴史をつぐむ集い」にて朗読)

  • 次へ
キーワードで検索
最近の投稿
  • ともに強靭なまちへ
  • 皆さまのお声かけに感謝
  • 物価高 所得減税を拡充
  • おまわりさんの日
  • “大衆とともに”の生命線
カレンダー
2025年6月
月 火 水 木 金 土 日
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  
« 5月    
カテゴリー
バックナンバー
あきひろ Twitter
@yoshidakihiro からのツイート
モバイルサイトQRコード
スマホでQRコードを読み込んでいただくと、ホームぺージをスマホでご覧いただけます。
サイト管理者
高槻市 吉田章浩
yoshida-akihiro.takatsuki@osaka.zaq.jp

Copyright c 2010 吉田 章浩. All Rights Reserved.