海北友松展 京都国立博物館開館120周年記念 学芸部長 山本英男氏より
15日付けの公明新聞5面より、「武士の気迫みなぎる孤高の絵師・詩情豊かに、自由に描く境地へ」
海北友松(1533-1615)、“かいほうゆうしょう”と読むらしい。
一般にはなじみが薄いらしい。父は武士(海北綱親・つなちか)で早くに戦死。その頃、友松さんは禅僧だったらしく難を逃れたとか。やがて狩野派(かのうは=日本絵画史上最大の画派)に入門し絵師となられたそう。
しかし、武士の子息だからなのか、「誤って芸家(絵師)に落ちてしまった。願わくは時運に乗じて海北家を再興したい」とつぶやいていたとか。
激しい気性は、そのまま絵に。67歳の時に建仁寺(けんにんじ)の大方丈(おうほうじょう=1丈(約 3m) 四方の部屋の意味らしいです)に描いた「雲龍図」八幅(元襖)はその典型と。
暗雲垂れ込める天空にうごめく二頭の巨大な龍の姿。まるで墨痕が飛び散るかのような激しい気迫が支配しているとの表現。観る者を威圧せずにおかないと。
ところが、70代にはいると画風は情趣性豊かなものへと変貌。背景には、八条宮智仁親王邸(はちじょうのみやとしひとしんのうてい)に出入りして大和絵の学習に努めたからだとか。「浜松図屏風(はままつずびょうぶ)」や「網干図屏風(あぼしずびょうぶ)」などセンスの良さがうかがえると。
そして最晩年。大和絵の雰囲気を兼ね備えた水墨画を描くことに成功。「月下渓流図屏風(げっかけいりゅうずびょうぶ)」、何かの和歌に基づき制作されたとする説が。
83歳でこの世を去る。画壇の覇権を争うことには関心はなく、己の画(え)を愛する人々のために、己の好きな画を自由に描くこと。それが「誤って芸家に落ちた」と嘆いた絵師・友松さんのたどり着いた境地だったのかもと、山本英男氏。
余談ですが、実は私も絵が好きで、子どものころから描いてました。絵というよりマンガですかね。今は、水彩画や色鉛筆などで楽しんでいますが、機会があれば専門的に学びたいと考えています。私の夢を具現化させたのが、長男。商業デザインの仕事をしています。二男は、私に似たのか技術の仕事。
私の絵は趣味のレベルでよしとしていますが、それでも味わい深い絵が描けたらいいなと思います。