2012.12.18森田実の言わねばならぬより転載
「最も正しき戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」(キケロ)<略>安倍晋三氏は、石原慎太郎氏(日本維新の会代表、前東京都知事)と同様、極右の政治家と見られています。<略>日本のなかで極右化しているのは自民党と民主党と日本維新の会とみんなの党と東京の大マスコミだけです<略>平和の党・公明党が自民党と連立政権をつくり、公明党が自民党の極右化を止める役割を果たすことです。ここに自公連立政権の最大のメリットがあります。公明党の平和主義が日本を救うのです。<略>。公明党と支持団体の創価学会は、平和を守るためには命をもかける平和主義者の集団です。<略>公明党が自民党と連立政権を組むことによって、自民党内の戦争勢力の勢いを止めることができるのです。
2013.5.4朝日新聞
96条改正は「裏口入学」。憲法の破壊だ 小林節・慶大教授〈憲法学〉
私は9条改正を訴える改憲論者だ。自民党が憲法改正草案を出したことは評価したい。たたき台がないと議論にならない。だが、党で決めたのなら、その内容で(改正の発議に必要な衆参両院で総議員の)「3分の2以上」を形成する努力をすべきだ。改憲政党と言いながら、長年改正を迂回(うかい)し解釈改憲でごまかしてきた責任は自民党にある。
安倍首相は、愛国の義務などと言って国民に受け入れられないと思うと、96条を改正して「過半数」で改憲できるようにしようとしている。権力参加に関心のある日本維新の会を利用し、ひとたび改憲のハードルを下げれば、あとは過半数で押し切れる。「中身では意見が割れるが、手続きを変えるだけなら3分の2が集まる。だから96条を変えよう」という発想だ。
これは憲法の危機だ。権力者は常に堕落する危険があり、歴史の曲がり角で国民が深く納得した憲法で権力を抑えるというのが立憲主義だ。だから憲法は簡単に改正できないようになっている。日本国憲法は世界一改正が難しいなどと言われるが、米国では(上下各院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認が必要で)改正手続きがより厳しい。それでも日本国憲法ができた以降でも6回改正している。
自分たちが説得力ある改憲案を提示できず、維新の存在を頼りに憲法を破壊しようとしている。改憲のハードルを「過半数」に下げれば、これは一般の法律と同じ扱いになる。憲法を憲法でなくすこと。「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界の標準。私の知る限り、先進国で憲法改正をしやすくするために改正手続きを変えた国はない。
権力者の側が「不自由だから」と憲法を変えようという発想自体が間違いだ。立憲主義や「法の支配」を知らなすぎる。地道に正攻法で論じるべきだ。「96条から改正」というのは、改憲への「裏口入学」で、邪道だ。(聞き手・石松恒)
北斗七星 2013年05月04 公明新聞 1面
法の話というと、難しい印象がつきまといがちですが、極力、分かりやすく努めます。憲法96条の話です。条文では、憲法改正を発議するためには衆院と参院でそれぞれの総議員の3分の2以上の賛成が必要と定めています◆いま、この規定について、過半数の賛成でよしとするとの主張が、にわかに出ています。しかし公明党は、「どこをどう変えるのがふさわしいかという議論がないまま」、改憲のためのハードルだけを引き下げようとしている点に、懸念を示しています◆気鋭の論客として知られる荻上チキ氏は、「いつの時代も、要所要所で、憲法をめぐる議論というのがさかんになりがちで、しかしその多くは、憲法をめぐる大前提である『立憲主義』さえ知らなそうなシロモノがずらり」と自著で指摘します◆憲法は権力者の権力乱用を抑えるためにある。これが日本の憲法を支える立憲主義です。本紙6面に連載された「政治のハテナ」で、専修大学法学部の岡田憲治教授も「憲法は国民のための道徳律ではなく、『政府が暴走しないように手かせ足かせをはめる』ために存在する」と訴えます◆公明党は、今の憲法を大切にしながら、新しい価値を加えていく「加憲」を提案しています。どこまでも平和を願い求める象徴の日本国憲法。積み上げた議論が必要です。(広)
国民的な憲法論議めざす 2013年5月4日公明新聞
96条改正 「過半数」での発議に慎重 NHK憲法特番で北側副代表
【改憲への考え】
一、戦後日本の平和、発展に憲法が果たした役割は大変大きい。ただ時代状況も大きく変化し、制定時に想定していない事柄、課題もある。必要なところは改正すべく論議することは非常に大事だ。これまで憲法が改正されなかったのは、東西冷戦下で保守と革新がイデオロギー闘争に明け暮れ、中身の議論ができなかった(からだ)。本格的に国民を巻き込んで議論していく時期になった。改憲に必要な国民投票法ができたのは6年前だ。ようやく護憲か改憲かの議論ではなく、どこを残し、どこを変える必要があるかという議論ができる土壌ができた。
【96条改正】
一、(改憲の発議要件を衆参各院の総議員の3分の2から過半数に緩和すべきとの主張があることに関して)権力から国民の権利・自由を守るという立憲主義が憲法の重要な本質だ。だから、最高法規と言われる。そういう観点から考えると、3分の2にはこだわらないが、過半数による議決は一般の法律と同じであり、果たしてどうなのか。硬性憲法の性質は維持すべきだ。96条はしょせん手続き論だ。手続きだけの改正では国民に分かりにくい。中身と一緒に議論すべきだ。
【新しい人権など】
一、環境権やプライバシー権など新しい人権を憲法上に位置付けることは大事だ。国と地方の役割についても、もっと明確に(第8章の)「地方自治」の中で書くべきだ。二院制に関しても、衆参の役割を明確にすべきだ。
【9条】
一、国連平和維持活動(PKO)協力法が公明党も賛成して成立した1992年当時は大きな議論になったが、今や自衛隊のPKO参加に反対する人は少数だ。また、この20年間で、自衛隊の存在・役割を国民は相当理解している。そういう中で、自衛隊の存在・役割や国際貢献活動を憲法の中に明記していく(ことを議論する)のは意味があると思う。
【集団的自衛権】
一、(有識者懇談会が、自衛隊の米軍との共同行動時やPKO参加時などに想定される4類型の各事態などで、憲法解釈の変更や集団的自衛権の行使容認を検討していることに関して)あえて集団的自衛権の解釈を見直さなくても、個別的自衛権の範囲の中で対応可能な場合が多い。PKOのように(国連の)集団的な措置に参加している時の武器使用や後方支援をどの程度認めていくのがいいかについては、自衛権ではなく政策的な問題としての議論ではないかと理解している。
「憲法」改正と改悪 小林 節著 から抜粋
そもそも「憲法」とは何か? 国家という名の政治機関を管理する法
国家権力を統制し、国民の人権を守り、幸福追及を保証する規範
主権者・国民が自らの権利を守り、かつ、自らの幸福追及を守ってくれる機関としての国家権力を管理するマニュアル、それが「憲法」である。つまり憲法とは「国家統治の組織作法の基本法」なのだ。
憲法は本来、国家権力が国民の自由を規制する民法でも刑法でもない。主権者・国民が国家権力つまりは公務員を管理するための法である。その法で一般国民を管理しようとするなどということは本末転倒である。(憲法で国民に国を愛する義務を強制することは筋違いな話。国を愛して欲しかったなら、国をあずかっている政治家たちが良識に照らして良い政治を行えばすむことだ。国を愛することを憲法で国民に強要しようとするなどとは本末転倒である)
「改憲」論議の経緯 「押し付け」憲法か否か?
改憲論議でよく出てくるのが『現行憲法は日本が戦争で負けた時に、アメリカが日本を都合よく不当につくり直すためにマッカーサー元帥が押し付けたものである。』という意見だ。
先の戦争も『一般国民は悪くない。明治憲法に定められた天皇制と軍国主義に問題があったのだから、天皇と軍隊が仕掛けなければ二度と戦争はおきない』そんな解釈の下の定められたのが「憲法前文と9条」である。事実、日本は東西冷戦時代、ソ連中国を目の前に、西側に与しその最前線に立ち、朝鮮戦争、ベトナム戦争では、補給基地としての役割を果たしていたが、「9条」があったため、決して自らは軍隊を出して参戦することはなかった。そのおかげで、一気に奇跡の経済復興を遂げることもできた。9条がなければ、あれほど急速に復興することは難しかったのではないか。こうしたことも背景となって9条信仰は定着していった。
大切なのは内容の善し悪しである
戦前の明治憲法では、天皇主権国家と定められ、国民は「臣民」として、天皇が法律で許す範囲の権利しか享受できず、つまり、人権の保障を受けていなかった。本来、人権は国家に管理されるべきものではないはずだ。さらには統帥権が政治から独立していたため、軍隊が独自に政治的行動を起こせる、つまり、軍国主義の憲法だった。それを新憲法は全面的に翻したのだ。
つまり、日本は、日本国憲法を受け入れたことで、天皇主権国家から国民主権国家へ、人権を保証しさらに、軍国主義から平和主義へと民主的変革を遂げることができたのだ。これはポツダム宣言(終戦)の条件でもあった。
日本国憲法は、「押し付け憲法」だから無効であるといって、明治憲法に戻すことを主張する人々がいるが、それは時代錯誤であろう。国民の人権を無視し、軍国主義に導く明治憲法には、どこかで終止符をうつべきであったのだ。
むしろ私は、歴史の進歩にかなったより良い憲法を手に入れることができたと考えている。歴史の進歩が真理である以上、それを否定することは出来ないはずだ。だから押し付け憲法の無効性を論ずること自体むなしいことだといえよう。
「改憲」は、主権者。国民の権利であり、義務でもある 憲法改正は、大切なわが家の営繕のようなもの
国の主である主権者・国民は、憲法の綻び、つまり、政治や社会生活の現実にそぐわない不具合を発見した時には、まずは憲法解釈で調整できるならばそれを試み、それでも限界があれば現実に合わせて修正する、不断の対応が肝要である。憲法改正とは、国家の主である主権者・国民が幸福に生き続けていくために、国家を正しく運用させていくための調整なのである。
9条 国防の問題は避けて通れない問題だ
憲法9条1項では、日本は戦争を放棄すると定めている。しかし戦争という概念を、国家と国家の武力衝突とするならば、放棄したからと言って戦争が絶対に起こらないかというと、そうではない。例えば「私は泥棒を放棄し泥棒を認めない」と宣言する。しかし、だから私が泥棒の被害にあわないかというとそうではない。泥棒にとって奪い得るものと隙が私にあれば、私はいつでも泥棒の被害にあう可能性がある。それと同じである。
憲法9条1項の「戦争」放棄に加えて、2項では、戦争の道具と資格を持つことも禁じている。つまり日本は「戦力」と「交戦権」を持つことも禁じられているのだ。したがって日本は軍隊を持たずに戦争ができないように見える。しかし、現実には「自衛隊」という、どう見ても軍隊が存在し、日米安保保障条約が結ばれ、他国が侵略してきたならば、米軍と自衛隊という2つの軍隊が迎え撃つぞ、という構えでいる。だからこそ、現実に、日本国民は守られてきたのだ。
戦争と軍隊を否定した憲法9条と日米安全保障条約の一翼を担う精鋭自衛隊が同時に存在している現実を、どう説明すればよいのだろうか。現政府は自衛隊の存在は合憲だという前提で動いている。このやっかいな現実には説明が必要だが、残念なことにこの難解な憲法論理をきちんと説明できる政治家が少ない。それほど憲法9条はわかりにくく、説明が難解な条文なのだ。
独立主権国家である以上、自然権としての「自衛権」は認められる
前提として確認すべきことは、日本が独立主権国家である以上、国家の先天的な権利である自然権(ナチュラル・ライト)としての自衛権は認められているということだ。これは国際法の常識である。
仮に、正当防衛が条文に書かれていなくても、人が人であり、(人間の集団である)国家が国家である以上、当然の権利として認められるはずの権利、それが自然権である。
日本には国家が当然持ち得る自然権としての自衛権が認められるはずだ。つまり、国家であれば、襲われたなら当然、抵抗する権利がある、ということが前提ににあるということだ。自衛権がある以上、自衛権を行使する道具持つことは認めれれることになる。そこに自衛隊の存在可能性が説明できるのだ。
国際法の専門家が見れば、今のままの条文でも、「侵略戦争は出来ないが、自衛戦争はできる」という解釈が成り立つのである。
第一次大戦後、1928年「パリ不戦条約」日本国憲法9条と同じ文言が記されている。「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」
これはどういうことかといえば、こちらから他国は襲わない。しかし、自国が襲われた場合には抵抗しても条約違反にならない。したがって「国際紛争を解決する手段としての戦争、つまり侵略戦争」は放棄するが、それは、侵略された場合の自衛戦争をも放棄するものではない、ということなのだ。これは世界の政治家や法律家の間での共通認識、確立された国際慣行としての読み方である。そういう世界の常識の下、アメリカは日本に「国際紛争としての戦争を放棄する」9条1項を与えた。ということは、「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争までは放棄していない」とプロなら当然のごとくそう読める条文なのだ。
自衛隊は戦力でない、には無理がある
2項で「1項の目的を達するために戦力と交戦権を持たない」といってしまえば、侵略のための戦力は持たないが、自衛のための戦力は持てることになる。ナポレオンもヒットラーも日本も「民族の自存のため」という「自衛」の名目で侵略していった。つまり、そうなれば自然権としての自衛権の行使、という前提は侵略戦争の歯止めでなくなってしまう。どうする? 2項で禁止しているのは「戦力」なのだから、戦力でなければOKということにしてしまった。これが今の日本である。
政府の論理は、「戦力」とは、単国で他国を侵略できるほどの軍事力をさす。それはたとえば長距離ミサイル攻撃とか、長距離爆撃機で爆弾を投下するとか、空母艦隊から攻撃するといった先制攻撃ができる高度な武器を備えた軍事力のことをさすが日本はそういう高度な武器を装備していない。つまり、自衛隊は日本が攻めこまれたら追い払うだけの装備しか無く、攻め込む能力は持っていない。だから自衛隊は「戦力」ではない、だから自衛隊は合憲だ、こういう論理なのだ。この論理には無理がある。実は、本来的に、侵略するより強い力を持っていなければ自衛にならない。弱ければ自衛にならない。したがって、戦力にいたらぬ弱い軍事力だから自衛隊は憲法違反ではない、という論理は無理な話であろう。
自衛には、侵略された際、一国で抵抗する「個別的自衛」と仲間で抵抗する「集団的自衛」の2つのパターンがある。日本も独立主権国家として、国際法で自衛権を認められているにもかかわらず、政府は、憲法の性格上、個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権を行使することはできない、としている。というのも、集団的自衛権の行使には海外派兵の危険が伴うため、それで憲法違反になる恐れがあるからだ、といわれている。つまり、集団的自衛権は「持っている」のに「使えない」ということだ。しかし持っているのに使えない以上、それは「持っていない」と同じことである。こうした不具合も憲法を改正する際にはきれいに整理しなければいけない。