東日本大震災から7年
本日は、東日本大震災から7年を迎えました。各地で防災のイベントが実施されました。
私も初台町会の防災訓練、防災ライフフェスタ2018に参加しました。
災害想定した訓練がいかに大事か?あの日、巨大津波が直撃した、宮城県名取市の閖上保育所“奇跡”と呼ばれた。公明新聞の3月9日(金)付の記事を紹介します。
ーーーーー 偶然ではなかった犠牲者ゼロ ーーーーー
海抜0メートル、漁港からわずか260メートルの場所にあった宮城県名取市立閖上保育所。“あの日”の昼下がり、1歳から6歳までの園児54人は、いつものようにパジャマ姿でお昼寝をしていた。2011年3月11日午後2時46分、巨大地震に襲われるまでは――。
その時、佐竹悦子所長(当時)は、行事の案内で地域を回っていた。路面が液状化で波打ち、車がなかなか進まない。途中、貞山運河の水位が異常に下がっているのを目にした。2時55分、保育所に戻った佐竹さんは(1)逃げます(2)車を持ってきて(3)小学校で会いましょう――と三つの指示を園児と職員に告げた。
職員10人と全園児は5台の車に分乗し、2キロ離れた閖上小学校へ到着したのは3時20分。3階建ての校舎の屋上へと避難して30分後、大津波が到達した。
住民の5分の1に相当する753人が亡くなった閖上地区にあって「犠牲ゼロ」の同保育所は“閖上の奇跡”と呼ばれた。
佐竹さんは09年、同保育所へ赴任。その頃、地域には「リアス海岸ではない閖上に津波は来ない」との口頭伝承もあったという。
ある日、園児を散歩に連れて行った日和山公園で「地震があったら津浪の用心」との石碑を目にした。1933年の「昭和三陸地震津波」の教訓を伝えるものだ。佐竹さんは「過去には3メートルの津波が来た。建物の高さが2メートルしかない、この保育所で、預かった命をいかに守るか」と園児一人一人の顔を思い浮かべながら真剣に考え始めた。
佐竹さんは2010年から「避難マニュアル」の改善に着手。毎月の避難訓練や避難場所を実際訪れるなど検証を重ね、そのたびに書き換えていった。
避難所は、発達障がいがある園児のことも考慮し、子どもたちにもなじみのある閖上小学校に決めた。しかし、保育所から2キロ離れており、「一人ももれなく助けるには車以外の避難は考えられない」。
そこで、佐竹さんと職員は、付近の道路をくまなく走り、渋滞を避ける「避難ルート」も確認。さらに非常時に何をすべきか全職員の役割分担も明確にしていた。
震災7年を前に、保育所があった閖上地区を訪れた佐竹さん。「あの時、一緒に訓練と話し合いを重ねてきた職員が一人でも欠けていたら逃げられなかったかもしれない」と当時を振り返る。そして、「“奇跡”は訓練の積み重ねでしか起こらない」と力を込めた。



