ヒストリー
私は、小学校3年から木更津に住んでいます。母は、躾にはとても厳しかったですが愛情いっぱいかけて育ててくれました。おかげで、ひどかった喘息を乗り越える事が出来、中学では、好きだったバレーボールやテニスに打ち込こめる健康な体になりました。
24歳の時、母がうつ病になり父の仕事が単身赴任だったので、母を一人で家に置いて仕事に出る事が心配になりとても悩みました。当時お付き合いしていた妻の協力と周りの先輩方のアドバイスを頂き、治療を続けました。
26歳で妻と結婚をし、結婚当初から私の両親と同居をしました。子供は現在高校3年と1年の男の子が2人です。
定年退職と同時に胃がんを患って帰って来た父の看病と母のうつ病。その時私は、目の前が真っ暗になりましたが幸い父の胃がんはその後、すっかり消えてしまい、10年かかりましたが母のうつ病は、薬がいらなくなりました。
しかし、母の足はすっかり衰え、歩けなくなってしまったので、介護生活となりました。若い時から勝気で一人で全てをやってしまう母が、日に日に衰えて行く姿を見るのはつらかったですが、家族で協力し介護施設の方にも、いろいろな形でお世話になりました。今の私にとって、とても貴重な勉強になったと実感します。
私は、電力会社で26年間、防災や危機管理の仕事をしてきました。初めは交代勤務だったので、明け番や休みを使って今後の自分の仕事に活かせる資格を取ろうと思い、大型自動車免許、潜水士、危険物取扱者、消防設備士を取りました。また、33歳の時、念願だった創価大学通信教育部に入学し、4年で卒業しました。仕事をしながらの通教は、時間との戦いで、レポートなどに追われ、本当に苦労しましたが、大学で求同心溢れる沢山の人たちと、との出会いが、私の人生観を大きく変えました。卒業式で、「必ず創大卒業生として社会で実証を示して行こう」と決意しました。
その後、海上保安庁の消防訓練施設に出向になり、特殊救難隊、通称「海猿」の指導教官をしていました。そして、あの3.11東日本大震災が起きました。私は、爆発の危機迫る福島第一原発に東京消防庁や自衛隊と共に炉心注水作業に行くことになりました。子供たちは、まだ小学生で家族を置いて行くことは、心配でしたがこういう時の為に訓練をしてきたのだから、自分か行かずに誰が行くんだと即答していました。この時、半径30キロ圏内が避難する中、原発4号機と10メートルしか離れていない所での作業です。いつ爆発するか分からないと言う状況の中でしたが、頻繁に起こる余震の中で必死でした。しかし、不思議にも私が作業している間は、放射能の数値は極めて低くなっており、冷静に作業することが出来ました9日間の任務を終えて、帰って来ました。震災後出向から戻り、東京本社勤務になった私は福島で見てきた生の現場の沢山の問題点を、これからの日本の防災・減災の為に何か活かせないかと考え、新規事業を考えました。
防災力強化の為には、あらゆる災害に対応できる「オールハザード対応」の能力が必要であり、具体的には災害対応にあたる消防や自衛隊、警察、行政などの連携をはかる「多機関・多機能連携」がポイントとなります。そこでアメリカやオーストラリアなど、防災先進国を視察調査し、専門的にマニュアル本を日本で出版する事が出来ました。そして、「多機関・多機能連携」を推進する取り組みが評価され、日本公衆衛生学会でも発表させて頂き、創大卒業生としての実証の1つを示せたと思っています。
私が仕事でこのような実績を作って来れたのは、本当に私が縁する沢山の人たちに恵まれて来たからです。
今回、立候補のお話を頂いた時、すぐに福島原発に行った時の事を思い出しました。究極の現場で任務を果たしてきたからこそ、木更津の未来のために使命を果たす時と決意を致しました。
そして、公明党の立党精神である「大衆とともに語り、大衆と共に戦い、大衆と中に死んでいく」を胸に、市民の皆さん、お一人、お一人の為に、全力で働き、使命を果たして参ります。
どうぞよろしくお願い致します。
福島第一原子力発電所炉心注水作業に向かう 2011年

