相模原市議会議員
大崎ひではる

原爆投下の日に考える

未分類 / 2016年8月10日

 8月6日と9日は、広島、長崎に原爆が投下されてから71年目の慰霊の日です。
 そして、世界のすべての核兵器・核実験の犠牲者を追悼し、核兵器廃絶と恒久平和を誓う日だと思います。

 先哲の言葉に「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります。」とあります。

 また、「生命の内奥から込み上げてくる人間の感情や欲望は、道徳や規律、また制裁の強化など、制度の改革をもってしても、根本的に抑制することはできない。一切の根源をなす生命そのものの変革、心の変革こそが、個人の幸福を実現していくうえでも、世界の平和を築いていくうえでも、最重要のテーマとなる。
 『心の錬磨に基礎をおかない限り、知性の開拓が人間を尊貴にすることはできない』とは、スイスの大教育者ペスタロッチの箴言である。」との一文もありました。

 生命の尊厳ということについては、次の言葉もありました。
「ある時、釈尊がこう問われた。「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と。だれもがジレンマに陥りやすい素朴な疑問ですが、これに対する釈尊の答えは「殺す心を殺せばよいのだ」というものであります。
 釈尊の答えは、逃げ口上でもなければ、ごまかしでもありません。「縁起」観に基づく見事なる解答であります。
 生命の尊厳という調和ある関係性は「殺してよい生き物」と「殺してはならない生き物」 といった、時に敵対し反目する現象界の表層ではなく、深層にまで求めなければならな
い。
 それは単なる客観的な認識の対象ではなく、「殺す心を殺す」という人間の主体的生命の内奥に脈打つ主客未分化の慈しみの境位であります。
 このダイナミック、総合的、内発的な生命の発動は、ベルクソンやホワイトヘッドが指摘しているような、単なる自我の消滅(無我)ではなく、自他の生命が融合しつつ広がりゆく、小我から大我への自我の宇宙大の拡大を志向しているのであります。」と。

 私も最近、自他共の生命の尊厳を認めることが、自身の心の平和をもたらし、世界の平和につながっていくと感じています。

相模原市での、県立津久井やまゆり園の事件も、自己も他人もありのままの人間生命の尊厳を感じられず、自己否定、他人否定の病根を感じます。

 このことについては、急がず、今後もじっくりと考えていきたいと思います。