「中村しんいち」は、4期目の新宿区議会議員です。働き盛りの58歳。議員としての原点を、紙芝居で紹介します。それでは、「この街に真剣一番」のはじまり、はじまりー。
中村は、介護に軸足を置き、たくさんの実績を積み上げてきました。その一つに、「高齢者見守りキーホルダー」があります。
外出先で突然倒れて救急搬送された時などに、身元の確認となり、家族などへ素早くつなげられる。そんな安心をカタチにしたのが、このキーホルダーです。
平成30年9月から事業をスタート。3ヵ月で1800人が持ち、大きな広がりをみせています。その誕生は、中村の祖母がきっかけでした。
中村は昭和36年1月2日、長崎県に生まれました。両親は共働きでしたが、祖母がいつもそばにいてくれました。
背丈ほどの雪だるまを一緒に作ったり、近くの浜辺にウミガメの産卵を見に行ったりしました。学校のお弁当も、祖母が早起きして作ってくれました。卵焼きやソーセージが入っていました。祖母の愛情のおかげで、体の弱かった少年期を、元気に過ごすことができたのです。
高校を卒業し、上京しました。人の多さに驚き、高層ビルをきょろきょろ見上げました。住まいは3畳一間、裸電球の質素なアパート。新聞販売店や喫茶店でアルバイトしながら学費を稼ぎ、大学の夜間に通う苦学生でした。
欠かさない日課がありました。古里の母に電話をすることです。受話器の向こうで、いつも母は喜んでくれました。それは社会人になっても、変わりませんでした。
ある日、母が気になることを言いました。85歳になった祖母が夜な夜な町を歩き回る、というのです。
認知症になった祖母を、父は毎日捜しました。体は限界を越えました。
中村は祖母を喜ばせたくて、生まれたばかりの息子を連れて帰省しました。ところが祖母は、中村のことさえ分からなくなっていました。胸が張り裂けそうでした。
その3カ月後、祖母が徘徊中に亡くなった知らせを受けました。
平成19年5月、中村は46歳で区議会議員になりました。祖母への思いを力に変えて、懸命に働きました。
戸山ハイツに、仲の良い90代の夫婦がいました。しかしその夫も認知症になり、徘徊が始まりました。妻の髪の乱れに、中村は老老介護の現実を感じ取りました。
「今こそ、政治の光が必要だ」。中村の挑戦が始まります。
予算特別委員会で「見守りキーホルダー」を提案しました。介護ボランティア制度を実現させ、戸山ハイツ4号棟に高齢者の介護施設をオープンさせました。
介護する側への視線をも忘れません。
介護者がリフレッシュできるように、区独自でヘルパーを派遣する事業をスタート。議員3期で受けた区民相談は、5000件を数えます。
現場の声を聞き、現場に育てられた、この12年間。中村の頑張る姿を、祖母は誰よりも喜んでいるでしょう。
「大衆とともに」という、公明党の立党精神。そこには、中村にとって忘れることのできない記憶があります。幼い頃、涙もろい祖母が、涙ひとつ見せずに話してくれました。写真でしか知らない、祖父のことです。
長崎に原爆が落とされた昭和20年8月9日。中村の祖父は全身に火傷を負いました。痛くて寝れないので布団にバナナの葉っぱを敷いて寝かせましたが、苦痛にうめき、終戦の日に息を引き取りました。
祖父は最期に、「ももが食べたい」と言ったそうです。当時13歳だった中村の父が、戦火がくすぶる町中を探しました。やっとの思いで桃を見つけ、祖父の震える口に運んだそうです。
家族の命と未来を奪った戦争を、絶対に許すことはできない。その血涙が、中村の命に流れています。
日本は超高齢社会に突入します。介護費用や医療費といった社会保障費の問題があげられます。
先行きは厳しいかもしれません。それでも中村には、揺るぎない思いがあります。
それは、新宿の皆さんがどれだけ年を重ねても、「生まれてきて本当に良かった」と、心の底から思える世の中を作りたい、という信念です。
「生きる」とは、自分の人生の主役を張ること。その一助になるところに、中村の使命があります。
「真剣一番 住みよい新宿」。今日も新宿の風となり、中村は皆さんのために働きます。