4月27日、公明党滋賀県本部の社会保険研修会において、藤井社会保険労務士事務所(大津市)の藤井貞男社会保険労務士を講師にお招きし、社会保険制度の基礎から実践的な相談対応まで幅広くご講義いただきました。今回は研修の中で特に「目からウロコ」だった2つのテーマを市民の皆さんにも共有します。


テーマ① 老齢年金の「繰り下げ受給」は本当に得なのか
「65歳よりも遅く年金を受け取り始めれば、その分金額が増える」——これは事実です。しかし、繰り下げが必ずしも「得」とは言えないケースがあることを研修で改めて確認しました。
繰り下げると年金額はどれだけ増えるのか
老齢年金の繰り下げ受給では、1ヶ月繰り下げるごとに0.7%増額されます。
| 受給開始年齢 |
増額率 |
| 65歳(基準) |
±0% |
| 70歳まで繰り下げ |
+42% |
| 75歳まで繰り下げ |
+84% |
一見、大きなメリットに思えますが、次の5つの落とし穴があります。
「繰り下げが得になるとは限らない」5つの理由
① 家族構成による影響:加給年金が止まる
老齢厚生年金には、「加給年金」という家族手当のような上乗せ給付があります。受給者が一定の要件を満たす配偶者や18歳未満の子を扶養している場合に加算されますが、老齢厚生年金を繰り下げている間は、加給年金も受け取れません。
加給年金額(令和8年度)の目安は以下の通りです。
- 配偶者分:約39万7,500円/年(月約3万3,100円)
- 子1人分:約22万7,900円/年
70歳まで5年間繰り下げた場合、その間の加給年金(配偶者分だけで約198万円)を丸ごと受け取れないことになります。繰り下げで増える年金額と、繰り下げ期間中に失う加給年金を必ず比較してください。子どもが多い世帯ほど、この影響は大きくなります。
② 配偶者との年齢差:繰り下げ中の生活費をどう賄うか
年金を繰り下げる期間は、年金収入がゼロ(または減少)になります。その間の生活費は、貯蓄・配偶者の収入・就労収入などで賄わなければなりません。
例えば、夫65歳・妻60歳(5歳差)で夫が70歳まで繰り下げる場合、繰り下げ期間5年間の生活費は月25万円とすると25万円×60ヶ月=1,500万円となります。これを貯蓄から取り崩す場合、金融資産の状況によっては現実的でない場合もあります。
年齢差が大きい(夫が年上など)場合、妻がまだ若く働いている間は夫の年金を繰り下げられても、配偶者が高齢になってからは生活費の確保が難しくなる場合があります。保有する金融資産・固定資産の状況も踏まえて判断することが重要です。
③ 18歳以下の子がいる場合:子の加算が受けられない
老齢基礎年金には、一定の子(18歳到達年度末まで、または1・2級障害の20歳未満)がいる場合に「子の加算」が加わります。しかし、老齢基礎年金を繰り下げている間はこの加算も止まります。
子の加算額(令和8年度)の目安は以下の通りです。
- 第1子・第2子:各約22万7,900円/年
- 第3子以降:各約7万5,900円/年
例えば、50歳で子をもうけた場合、65歳時点で子は15歳です。老齢基礎年金を68歳まで繰り下げると、子の加算(3年分=約68万円)を受け取れません。晩婚化・晩産化が進む現代では、65歳時点でまだ子が18歳以下という方も珍しくありません。該当する場合は必ず確認が必要です。
④ 国民健康保険料・所得税が増える
繰り下げにより年金月額が増えると、それに連動して国民健康保険料と所得税の負担も増加します。「増えた年金額」がそのまま手取りになるわけではありません。
具体的なイメージとして、老齢基礎年金満額(令和8年度)は847,300円/年(70,608円/月)です。70歳まで繰り下げると70,608円×1.42=約100,300円/月となり、増加分は約29,700円です。しかし、この増加分に対して国民健康保険料(所得割)と所得税が課税されるため、手取りの増加は約29,700円より少なくなります。実際の増加額は市町村・世帯状況により異なりますが、増加分の2〜3割程度が税・保険料に消えるケースもあります。
国民健康保険料は前年の所得(年金収入)をもとに計算されます。住んでいる市町村によって保険料率が異なるため、必ず居住地の市区町村窓口や年金事務所で試算してもらうことをお勧めします。
⑤ 健康寿命:「損益分岐点」を超えて生きられるか
繰り下げ受給は、受け取り始めてから一定の年齢(損益分岐点)を超えて生きてはじめて、65歳受給開始より総受給額が上回ります。
70歳から受給を開始した場合、65歳〜69歳の5年間(60ヶ月)は年金ゼロです。70歳以降に増額分(42%)で5年分の取りこぼしを回収するにはおおよそ11〜12年かかるため、約81〜82歳が損益分岐点となります(税・保険料の増加を考慮するとさらに遅くなります)。
厚生労働省の公式データによると、日本人の平均寿命・健康寿命は以下の通りです。
- 平均寿命:男性81.09歳、女性87.14歳(令和5年簡易生命表)
- 健康寿命:男性72.57歳、女性75.45歳(令和4年度)
健康寿命と損益分岐点を比べると、健康寿命の時点ではまだ回収できていない可能性があります。介護状態になった後も年金は受け取れますが、自分でお金を使える状態かどうかも考慮が必要です。「長生きすれば得」は事実ですが、「いつまで健康でいられるか」という現実的な視点も同時に持つことが大切です。
繰り下げを検討する際のチェックリスト
- 加給年金・子の加算の対象になっていないか
- 繰り下げ期間中の生活費は確保できるか(金融・固定資産の確認)
- 国保料・所得税の増加分を試算したか
- 自分・配偶者の健康状態・健康寿命を考慮したか
- 配偶者との年齢差・家族全体の収入状況を整理したか
繰り下げを検討する際は、必ず年金事務所または社会保険労務士への個別相談をお勧めします。個々の状況によって最適な選択は異なります。
テーマ② 「扶養に入ったまま収入を抑える」は本当に賢い選択か
「社会保険に入ると手取りが減る」「扶養の範囲で働く方が損をしない」——そう考えてパートの収入を106万円や130万円以内に抑えている方は少なくありません。しかし、研修では長期的な視点から見ると必ずしもそうとは言えないことが示されました。
社会保険加入のメリット vs デメリット
|
扶養のまま(社会保険未加入) |
社会保険加入 |
| 視点 |
短期的な見方 |
長期的な見方 |
| 手取り額 |
増える |
一時的に減る |
| 傷病手当金 |
受給不可 |
受給可能 |
| 出産手当金 |
受給不可 |
受給可能 |
| 老齢厚生年金 |
増加なし |
将来増加 |
| 障害厚生年金 |
受給不可 |
受給可能 |
傷病手当金とは何か
健康保険の被保険者(本人)が、業務外の病気やケガで休業する場合、月給の約3分の2が最長で通算1年6ヶ月支給されます(健康保険法第99条)。国民健康保険の被保険者や、健康保険の被扶養者(家族加入)の方は対象外です。
支給額の計算式:支給開始日以前12ヶ月間の各月標準報酬月額を平均した額 ÷ 30日 × 3分の2
年収の壁と2026年の主な制度変更
現在、収入に応じて以下のような「壁」が存在します(2025〜2026年時点)。
| 年収 |
壁の種類 |
内容・変更点 |
| 93〜110万円 |
住民税 |
自治体により異なる。2025年分から住民税(均等割・所得割)が課税。 |
| 106万円 |
社会保険 |
従業員51人以上の企業・週20時間以上勤務等の要件で厚生年金・健康保険への加入義務。2026年10月に賃金要件撤廃予定。 |
| 130万円 |
社会保険 |
社会保険の被扶養者から外れる基準。2026年4月から判定方法が変更となり、労働契約書ベースでの年間収入見込みで判定。 |
| 178万円 |
所得税(本人) |
令和8年(2026年)分から本人に所得税が課税開始。年収665万円以下が対象。 |
社会保険加入を長期的に考えると
社会保険に加入することで手取りは一時的に減っても、傷病手当金・出産手当金の受給権、老齢年金の増額、障害を負った場合の障害厚生年金受給など、長期的な生活保障が得られます。「損をしない」という短期的な判断だけでなく、ライフプラン全体で考えることが大切です。
まとめ
- 年金の繰り下げ受給は単純に「得」とは言えず、家族構成・健康寿命・税負担への影響を踏まえた個別判断が重要。
- 「扶養内」に収入を抑えることの短期的メリットと、社会保険加入による長期的な生活保障のメリットを比較することが大切。
- 2026年4月から130万円の壁の判定方法が変更されており、最新情報の確認が必要。
- 個別の状況については、社会保険労務士や年金事務所への相談を強くお勧めします。
制度は複雑で、一般的な「常識」が自分の状況に当てはまらないこともあります。