近江国庁を学ぶ歴史講座に参加
大津市文化財保護課の田中氏による講演内容をもとに、瀬田地域の奥深い歴史と、古代の行政の中心地であった「近江国庁(おうみこくちょう)」にまつわるロマンあふれるお話を伺いましたので、記憶の範囲でまとめてみました。当日は約60名もの方が参加!終了後も質問がたくさん飛び交うなど、皆さんの歴史に対する関心の高さが伺える大盛況の講座となりました。

2万年前の旧石器時代から続く瀬田の営み
瀬田の歴史は驚くほど古く、なんと2万年前の旧石器時代にまで遡ります。発掘調査では、遠く香川県や大阪府から持ち込まれた「サヌカイト」と呼ばれる石で作られたナイフ形石器が出土しています。
当時はナウマンゾウなどの大型哺乳類が生息しており、人々は投げ槍を使って狩猟生活を送っていました。瀬田は古くから人々が活動する豊かな土地だったのです。

奈良時代の「大国」近江と巨大な古代道路
時代が下り奈良時代になると、日本全国は約60の国に分けられました。その中でも近江国は「大国(たいこく)」に指定され、東海道や東山道、北陸道などが交わる交通の超重要拠点となります。

発掘調査によって、瀬田の唐橋の南側(青江遺跡など)からは、道幅が24メートルもある朱雀大路のような立派な直線道路の跡が見つかっています。
近江国庁に向かう道が24mというのも驚きですが、普通の道でも12mもの幅があったというのですから古代のインフラ整備には圧倒されます。

この「12m」という道幅、実はとても面白い方法で確認されました。現在の瀬田工業高校の横の道路から12mを測って発掘調査をしたところ、なんとドンピシャで当時の排水路(排水口)の跡が見つかったのです!現代の道路を基準に測って古代の側溝が実際に見つかるなんて、当時の道路網がいかに正確に整備され、現代の町の骨格に繋がっているかが実感できる、とてもワクワクするエピソードですよね。
藤原仲麻呂の野望と壮麗なる「近江国庁」
この近江国の政治の中心であったのが「近江国庁」です。国庁の発展には、孝謙天皇に重用された権力者・藤原仲麻呂(恵美押勝)が深く関わっています。彼が権力を握り大繁栄した時代に、近江国庁もまた壮大な姿へと整備されました。
発掘調査が明かす近江国庁の姿と「瓦」の秘密
国庁跡からは、前殿・後殿・脇殿といった立派な建物の配置が確認されています。建物の周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、厳格な空間が形成されていました。
ここで非常に興味深いのが、屋根に葺かれていた「瓦」のデザインです。瓦の真ん中の丸い意匠は、よく「菊」と見間違えられますが実は「蓮の花」をイメージしたもの。そして、その周りには雲の模様(飛雲文)が入っています。
実はこの瓦の雲模様、聖武天皇が愛用し、現在は正倉院に納められている鏡のデザインがルーツではないかと考えられています。

※聖武天皇の宝物として「国家珍宝帳」にも記載されている鏡
この鏡をよく見ると、真ん中には向かい合う龍、その周りには「雲」が描かれています。さらに下部には「山岳文(さんがくもん)」と呼ばれる山があり、そこには魔法のマッシュルームとも言えるようなキノコ「霊芝(れいし)」がいっぱい生えています。
正倉院に納められる際に「国家珍宝帳」という目録にも記されたこの鏡。その美しい雲の意匠が、形を変えて近江国庁の瓦の文様へと結びついているかもしれないというお話は、なんとも歴史のロマンを感じさせますね。これらの技術には、新羅や百済など渡来人の影響が色濃く反映されており、国際色豊かな技術が集結していたことがわかります。
米軍の空中写真と出土品が語る真実
遺跡の調査には、1947年(昭和22年)にアメリカ軍が撮影した空中写真も大きく役立っています。当時の写真から地形や古い区画の痕跡を読み解くことで、かつての国庁や道路の位置がより正確に判明しました。
建物の構造も時代とともに変化しており、初期は柱を直接土に埋める「掘立柱(ほったてばしら)」でしたが、後には石の上に柱を立てる「礎石(そせき)」へと進化していった過程も発掘から分かっています。さらに、木簡(文字が書かれた木の札)や須恵器、お茶碗なども出土しており、当時の人々の生活や行政の様子をリアルに伝えてくれます。
今もなお、瀬田周辺の住宅街や関西電力の変電所の地下には、かつての遺跡が眠っています。私たちが普段歩いている道の下に、これほど壮大な歴史が広がっていると思うと、見慣れた景色も違って見えてきませんか?これからも新たな発見が続く瀬田の歴史に、注目ですね!
この記事は、令和X年度 瀬田学区 自治連合会 歴史講座「近江国庁を学ぶ歴史講座」(講師:大津市 市民部 文化財保護課 田中久雄氏)の内容をもとに構成したものです。














