第10次被災地支援ボランティア④
12/25(日)
帰りの高速バス到着までの自由時間、希望者で大きな津波被害を受けた
「野蒜小学校」、「鳴瀬第二中学校」、「JR仙石線野蒜駅」を見に行きました。
野蒜小学校は前回11月にも行きましたが、
https://www.komei.or.jp/km/ota-tamagawa-hidetoshi/2011/11/10/
「記憶から消してはならない」との思いで、再度足を運びました。
当時の状況について詳しいメンバーから話を聞きました。
海岸から約1km以上離れている野蒜小学校まで津波が押し寄せてきました。
体育館には300人以上が避難していましたが、津波による濁流が入ってきて、瓦礫と共に水かさを増して、一気に3mほどの高さまでに水位が上昇しました。
津波の勢いで体育館の中では濁流が渦を巻きはじめ、逃げ遅れた人たちが、その渦に飲み込まれてしまい、津波が引いた後の体育館には、遺体の姿がたくさん横たわっていたとのこと。
2Fバルコニーに避難していた人たちはその光景を目撃していたわけです。
今回は、2Fバルコニーや壇上などにも上がり、追悼の祈りを捧げました。
前回にも増して涙が出てきました。
野蒜小学校での当日の模様は、こちら↓の記事にも掲載されています。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110430/dst11043023490029-n1.htm
鳴瀬第二中学校、こちらは時間が無くてゆっくり見れなかったのですが、1Fの運動部の部室があったと思われる部屋が壊滅状態。
汚泥にまみれた表彰状やトロフィー、写真、用具などが散乱していて、配布予定だったと思われる2010年度の卒業アルバムも崩れたままになってました。
言葉を失いました。
JR仙石線野蒜駅も壊滅状態。
駅前の交差点、街灯がこんなに曲がっています。信号機も動いてません。
「復旧させよう」との手書きののぼりが立っています。
道路標識も交通の邪魔にならないように置かれたまま。
右手に見えるのが野蒜駅のホームです。線路も撤去されています。
場所によっては線路が垂直に曲がってしまったところもあったようです。
徒歩で2時間近く歩き続けただろうか、途中の道沿いにも津波被害を受けたラーメン屋やコンビニなど、わずかな残骸でそれがやっとわかるといった壊滅した家屋の痕も何軒も目にしました。
やはり映像などではなく、現場の目線で自分の眼で見なければわからない。
これはすべてにおいてそうであると実感しました。
サテライト拠点へ戻り、昼食のお弁当を食べて高速バスで帰路へ。
蒲田・区役所前到着まで約6時間かかりますが、到着まで2時間のあたりでバスの中での参加者全員の反省会&感想発表が始まります。
「子供たちの笑顔が何よりもうれしかった」
「はじめて会ったみんなと一緒にひとつのことをやり遂げて感動した」
「ボランティアがずっと続くよう、もっと多くの人に広めていきたい」
「自分が生きている意味をこのボランティアでみつけた」
「生きる勇気をいただいた、どんな状況でも前向きに生きようと思った」
「職場で自分に自信を失っていたが、使命感をもてるようになった」
などなど、ボランティア参加者からの感動的な声がたくさんありました。
単なる労働力の提供ではなく、参加者個人の成長していく姿があるわけです。
このボランティアから生み出される力には、まだまだ未知なる力を秘めていると感じました。
私自身、新しいメンバーとの交流の輪が広がり、またすでに共有の知り合いがいたりと、必然的、感動的な出会いがたくさんありました。
この被災地支援活動の継続、現地ボランティアの参加者拡大、現地活動の多角化…等々、さまざま課題はありますが、ここで学んだ「現場に行かなければ本当のことはわからないと」との信念で、これからも現地ボランティア参加を継続していきます。