2008年初め、大阪は橋下新知事の誕生で全国的に注目を集めていました。
しかし、一方で財政規律を守る為にムダの見直しを迫られた委員会が
この2月3月の委員会になりました。
2007年11月京都大学の山中伸弥教授が
iPS細胞の作製に成功したというニュースが全世界を駆けめぐりました
日本はこのバイオ技術の分野ですでに欧米より
10年以上は遅れている聞いておりましたので
この中山先生のiPS細胞の作製に成功されたことは
研究の分野で一挙に劣勢を挽回し、日本や関西・大阪にとっても
新しい産業を興すことが可能になると考え質問しました。
委員会では「iPS細胞に係るバイオ振興について」を
そして橋下知事にも「iPS細胞について」質問をし
このバイオ分野での必要最低限の予算は確保できたのではないかと考えます。
この分野は世界と戦える数少ない大阪のフィールドになると思いましたので
現在に至るまで引き続きバイオ医療分野に関係する質問が多くなっています。
平成19年12月に初めて府議会の議場で一般質問をしました。
委員会の質問と違い、議場での質問は多くの議員や理事者の前での
質問となるのでかなり緊張したのを覚えています。
内容は
①最初に大規模震災対策についての質問です。
自分自身が神戸で震災を体験したという理由もありますが
西成の街は人情が厚く、昔からの長屋が多いので
どうしても震災で被害が大きかった長田の街とダブってしまうからでした。
②次に自分の祖母も原爆の話をよくしてくれていましたが
ここ大阪にも広島や長崎で被爆に会われた方が8000人弱おられ
そのお子さんである原爆被爆者二世対策が十分でないことから
がん対策の質問をしました。
③そして当時、大阪府が上海万博に出展するかどうかを最終決定する上で
私は賛成の意見を表明し質問しました。
④また地元西成の安心安全を進めるため
あいりん地区対策の質問をしました。
やはり議員は議場で何を述べるかが重要だと思います。
質問を聞きに議場まで足をはこんでいただいた支援者の皆様に
心より感謝申し上げます。
2007年(H19)4月に当選し、まずは西成や大阪の活性化を行いたいと思い
商工労働委員会でスタートしました。
この時はにぎわい創造部も同一の委員会としてあり
「大阪を元気にする」がテーマと考えていました。
選挙のときに「国際都市大阪」を掲げて戦いましたが
当時相当違和感があったようです。
西成では2004年に新今宮を中心に外国人の宿泊数が1万弱から
2006年には3万3千と3.6倍に増加し街が変化を始めていました。
この流れを確かなものにしたいと思い、2007年10月での最初の
商工労働委員会での質問は
- 財務大臣会議にむけての取り組みについて
- 産業環境の推進と街づくりについて
- 外国人の格安旅行の整備と観光情報の提供について
- 外国人観光客への言語対応について
とすべて観光や地域活性化に関する質問ばかりでした。
2009年には8万泊まで伸び、2010年では薬10万泊になると聞いています。
「バックパッカーの町、外国人観光客の町西成、新今宮」といっても
今では受け入れてもらえるまでになりました。
2006年8月に枚方から西成へ引っ越しをして
この地に骨をうずめる覚悟で選挙にのぞみました。
定数2の府会議員候補として約7ヶ月近く戦い抜きましたが
まったく西成には縁がなく落下傘候補として失敗も多々あり
多くの支援者の方々や公明党員の皆様方の応援なくしては当選できませんでした。
地方選挙はまさしく「どぶ板」選挙といわれるごとく、地域での繋がりが物を言う選挙となります。
知名度も何もなく、ただ支援者のお力で当選まで押し上げていただきましたが
この御恩を何としてでも結果として次の選挙までに出してご報告をしなければと決心し
当選後は議会に臨んでまいりました。
つぎはこの4年間当選後に取り組んできました事を中心に、皆様にお伝えできればと思います。
2001年12月24日クリスマスイブの日
この日に神戸より大阪の枚方に引っ越してきました。
年末年始は国会議員にとって、あいさつ回りで一番忙しい時期になるので
急いで準備し長男も残り少しだった幼稚園生活を新天地で過ごさなければなりませんでした。
以前は衆議院の小選挙区で今回は参議院の大阪選挙区になり
地域も回る範囲は広範囲になり、同じ国会議員秘書ですが
全く新しい職場に来たと言っても過言ではないと思います。
大阪は大和証券の北浜研修時代に1年弱、そして梅田支店に3年いましたので3度目になりますが
1から地図を頭に入れて再び1から学んでいきました。
2004年夏、大変厳しい選挙でしたが勝利でき
その後、浮島智子秘書として約2年半近く関西一円を飛び回り
また女性の議員に仕えるとともに、今までほとんど関係を持ったことのなかった
文化、芸術の分野に踏み込めたことは、自分の幅を広くする上では大いに役立ちました。
西明石から神戸の北区に引っ越し、国会議員秘書のスタートとなりました。
行政の事やいろいろな市民相談等、一つ一つ手探りで教えてもらったり
自分で調べたり学ぶことが多く大変でした。
地域の行事にも議員の代理として出席し、あいさつ等もする事もありました。
最初は新進党でしたので、政権交代の必要性などもよく話をしておりました。
しかし新進党も解党され、その後公明党に戻り自民党と力を合わせるようになるのですが
まったく予測ができない中で懸命に赤羽のアピールを地元有権者の皆様方にしておりました。
そして自民党、公明党としての連立初の選挙は小渕総理が倒れられてからの選挙でした。
まさしく「一寸先は闇」のような政治の現実の中にいました。
選挙は勝利できましたが公明党全般としては苦戦が続き
4年半たった2001年末山下栄一秘書として大阪で秘書をすることとなりました。
この震災で私が住んでいたマンションも危険であることから赤い紙が貼られ
垂水から西明石へ引っ越すことになりました。
取り急ぎ会社から引っ越しの費用を借りて、自分自身の生活の再建に取り掛かりました。
私のいた大和証券の明石支店にも、神戸支店が大きな被害を受けたため
神戸支店の社員の方が来るようになりました。
まず西の方から再建の波をおこし、神戸へ一刻も早く届けと努力を続けておりました。
公園や学校の校庭は仮設住宅となり、多くの方々が涙をこらえ
歯を食いしばり現実と戦う事となったわけです。
私も父や母から戦争の話や長崎の被爆の話を聞いていましたが
自らが神戸での震災を経験をすることにより
現実感を持って戦争や被爆のことを考えるようになりました。
そしてそれは政治のあり方や、日本の将来等を含め
より深く考えることとなり、私の大きな転機となりました。
「もうだいぶ長田の駅近くまで来たから、文化会館が見えるはずだけど・・・」
と言いながらほとんどが焼け落ちた中に
「あった!燃えてない!!」 「よし!行こう!」
火の海を進み、すぐ長田文化会館に車をつけ水と毛布を持って上がる。
この会館がどれだけ多くの命を守ったことか!そう思い会館の中に入り物資を届ける。
次に私にできる事はと、現場の声を聞くと
「赤ちゃんのミルクが必要、それと女性の生理用品が足りない」
「必ず対応します」そう言い残し会館をあとにする。
その帰り道、女性の親子が火が消えていない中に毛布をかぶり立っていました。
車にはもう何もなく安否を気遣うことができませんでした。
「大丈夫ですか?」その問いに対し
「ありがとうございます。大丈夫です」
この親子に対し何もできぬ無念さと、それでも「ありがとう」との感謝の言葉が
今でも、私の脳裏に焼きついています。
自宅に戻ったのは、もう3時も回っていました
仮眠を取り、そして再建への死闘が始まりました。
神戸市内の映像を見て事の重大さを認識しました。
しかし今の自分にできることは、現実のこの現場で
一つ一つ立ち上がっていくことです。
明石支店には当時証券貯蓄の部署があり約30名近くの社員がおりました。
安否の連絡を取りましたが、電話が通じるまでに20分、30分とかかり
また書類が散乱している店舗内の片付け等をおこない
気がつけばもう夕方になっていました。
支店の自転車を借りて垂水の自宅までもどり、一息ついたところで
近くの友人から水と毛布をもって長田まで行こうとの話があり
夜8時頃、救援物資を持って車で向かいました。
道路はどこも大渋滞で3時間以上かけてどうにか長田の街に入りました。
大橋9丁目の交差点にきた時、警察官から止められ
「これ以上進むと危険なので引き返すように」と言われましたが
「水と毛布を届けたら戻って来るので」と説明し
創価学会の長田文化会館を探し進んでいきました。
そこにはあの神戸の街はなく、ほとんどが火の手により焼き尽くされ
火はまだ燃えており、地獄絵図のようでした。