本日、公明党中央幹事会において、次期衆院選挙の公認予定候補の発表がありました。
沖縄方面本部長を努めた遠山清彦衆院議員(写真右)が、神奈川6区から出馬することに。
氏は2001年に参院議員として初当選。
当時30歳。
青年で平和学博士。
写真左は私の主人ですが、私も議員にさせていただく前から、遠山氏の政治への志、情熱あふれる人柄と弁論の強さに魅せられ、これまですべての選挙において支援を頑張り抜いてきました。
氏は2009年に九州沖縄比例ブロック選出の衆院議員へ。
衆院に初当選するまでの浪人時代の1年8カ月の間に沖縄の島々に足を運び島人の声に耳を傾け力を蓄えてこられました。
議員バッヂが無くても何度も沖縄へ。
昨年は財務副大臣として入閣されたときは感無量でした。
選挙区が変わっても沖縄を忘れずに頑張っていただきたいです。
私たちも神奈川6区へ勝利の風を送っていきたいと思います。
写真左は私の主人ですが、青年時代から遠山議員の大ファンでした。
これからも感謝の心を忘れずに応援していきます。

プラスチックごみを削減するため全国の小売業者にレジ袋の有料化が義務付けられ、きょう7月1日からスタートしました。
大きさが5ミリ以下の「マイクロプラスチック」による海洋汚染が深刻化するなど、プラごみ対策は喫緊の課題です。
国内で使用されるレジ袋は年450億枚に上ると推定されています。
海外では、英国が2015年からレジ袋の有料化を義務付けているほか、オランダやポルトガルでも有料化で高い削減効果をもたらしているそうです。
有料化や使用禁止は約70カ国に広がっており、使用抑制は世界的な流れとなっています。
公明党は2018 年11月、レジ袋の有料化を義務付けることを政府に提言。
プラスチックの使用抑制を進めるよう求めていました。
このたびの実現を歓迎するとともに課題の認識も必要だと感じています。
国内のプラスチックごみに占めるレジ袋の割合は2%程度。
レジ袋の削減だけでは抜本的な解決にはならないのだそうです。
しかし、レジ袋の再使用や買い物用マイバッグの持参を1人1人が心掛けるなど消費者の行動変容がもたらす効果は大きいと期待も。
「プラスチック資源循環戦略案」では2030年までにプラスチックの排出量を25%削減し、35年までにプラごみを100%有効利用することなどが盛り込まれています。
まずはプラごみ削減に向けてマイバッグ、エコバッグ持参の買い物習慣を身につけるなどできることから始めていこうと思います。
店頭で咲くアジサイの美に見とれながらことし下半期へスタートです。

先日、上原章県議と公明党市議団で
那覇市社会福祉協議会を視察(6月19日)。
市社協がことし4月から取り組む新事業、国の休眠預金を活用した「子ども食堂等支援事業」について内容を伺いました。
同事業は、子どもの居場所づくりに取り組む幅広い団体と連携しながら運営をサポートする目的で実施され、市社協は主に企業との仲介役となり食材の調達や保管に取り組んでいました。
企業から寄贈された食材は、市社協に4年前に設置された中間支援組織である「子どもと地域をつなぐサポートセンター糸」によって市内26カ所の子ども食堂に提供される仕組みとなっていました。
個々の食堂の努力には限界があると思われ、企業と連携して得た食材を子ども食堂につなぐサポートは大きな力となることを実感。
最近、農水省による子ども食堂への備蓄米(玄米)の無償提供が始まりましたが、ここでもサポートセンター「糸」が子ども食堂の要望をまとめて国に申請する役を引き受け、また精米に協力する事業者も確保され準備体制が整えられていました。
「糸」のような中間支援組織の存在は大変大きいと感じた次第です。
2016 年に市社協に設置された「糸」は内閣府子どもの貧困対策事業費を活用し、食事の提供や学習支援を行う子どもの居場所の実態を把握し丁寧な支援活動を展開。
新型コロナ禍の中で、弁当配布という形で活動を継続してきた子ども食堂もあり、おかげで助かった世帯は多かったと思います。
善意に支えられた活動に感謝しながら、コロナ第2波に備え、課題を整理していく必要があります。
今後は、従来から活躍するサポートセンター「糸」と新事業が連携し、子どもたちのために、さらに充実した支援が行われることを期待します。
私たちも力を合わせて頑張ってまいります。

6月26日の6月定例会の最終本会議で、那覇市議会は、首里城地下にある旧日本軍第32軍司令部壕の保存整備と内部公開を求める意見書を全会一致で採択しました。
第32軍司令部壕は住民を巻き込んだ激烈な沖縄戦を指揮した場所です。
1944年12月から構築作業が始まり、総延長約1キロ。激しい空襲や砲撃を想定し、首里城の地下15~30メートルに築かれた。沖縄師範学校や県立第一中学校の生徒も陣地構築に動員されました。
地下に司令部があったため、首里城は米軍の攻撃で破壊されました。
45年5月22日、第32軍は司令部壕を放棄して南部撤退を決定。
このため南部に避難していた10万人の住民が巻き添えに。
南部撤退は本土決戦準備のための時間稼ぎでした。
沖縄戦の実態を次世代に継承するため、この壕の保存公開を求める声が高まっています。
写真は在りし日の首里城正殿の後ろ姿。
東のアザナ高台から撮しました。







