Archive for the ‘未分類’ Category
東西冷戦が終わり、21世紀を迎えようとした時、多くの人々は「戦争の世紀」にピリオドが打たれると思ったにちがいない。しかし、迎えた新世紀は「9・11」同時多発テロで幕を開け、悲惨な争いは、今なお世界の各地で続いている。
22年前、1993年のきょう8月6日、池田名誉会長は小説『新・人間革命』の執筆を開始し、冒頭にこうつづった。
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」――広島の原爆投下から48年のこの日、人類の進むべき根本の道を示し、恒久平和実現への叫びを放ったのである。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とは、ユネスコ憲章の前文にある有名な言葉だ。
戦争の惨禍をなくすには、政治も外交も大切である。だが、全ては「人の心」に平和のとりでを築くことから始まる。ところが、その根幹がなおざりにされてはこなかったか。
『人間革命』も『新・人間革命』も、主題は「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」である。
仏法は、万人が等しく「仏」の生命をそなえていると説く。それは「生命の尊厳」の支柱となる法理である。そして、現実生活のなかで「仏」の生命を涌現させ、慈悲を体現していくことが人間革命である。つまり、私たちの進める運動とは、生命の開拓作業であり、まさに「心の中に平和のとりで」を築くことにほかならない。
起稿の日、名誉会長は長野研修道場で、インド・ガンジー研究評議会議長のN・ラダクリシュナン博士と、「『魂の力』は原子爆弾よりも強い」というマハトマ・ガンジーの信念について語り合った。
無名の民衆が世界中で友の幸福を願い、励まし合う創価学会の姿を、今日まで見続けてきた博士は、「世界平和のために、結束して行動する民衆に潜在する無限の力を証明した」と称賛を惜しまない。
いかに遠回りに見えようとも、確かなる平和の道は、草の根の民衆が、何ものにも勝る「魂の力」を蓄えていく以外にない。
今年で広島の原爆投下から70年を迎える。この時にあたり、『新・人間革命』を胸に刻み、人々の心に「平和のとりで」を築く誓いを新たにしたい。

2014.11.16 聖教新聞 社説より…転載!
アフリカ・リベリアで内戦が勃発した1989年。17歳の少女だったリーマ・ボウイー氏(ノーベル平和賞受賞者)は、「赤いTシャツ」を着ていた少年が兵士に銃殺される場面を目撃した。反政府勢力の制服は「赤」だ――そんな噂があったことが、殺害の理由だった。
14年に及ぶ泥沼の内戦。27万人が犠牲になった。「平和が欲しい。戦争はいらない」――ボウイー氏が進めた女性による非暴力平和運動の訴えはシンプルであり、なおかつ力強かった。
〝弾丸が相手を選びますか。弾丸はキリスト教徒とイスラム教徒を区別しない〟。このスローガンのもと、宗教の枠を超えた連帯が構築された。
やがて平和の象徴である白い服を着た数千人の女性たちが、大統領官邸の敷地を埋め尽くした。そして、女性たちの叫びは、停戦合意への原動力となっていった(『祈りよ力となれ』英治出版)。
きょう16日は、「国際寛容デー」である。「寛容は平和と和解にとって最強の基盤」であると、国連の潘基文事務総長は指摘する。「赤いTシャツ」を着ていたから、キリスト教徒だから、イスラム教徒だから――。こうした「レッテル貼り」による憎悪の連鎖を断ち切る力が、寛容の精神にはある。
日本においては「ヘイトスピーチ」(差別扇動表現)など、排外主義運動の先鋭化が懸念されている。街宣活動やデモの最中に「△△人は叩き出せ」等と、特定の人種や国籍、宗教に対して攻撃を浴びせる。対立を生み出すだけの不毛な、許されざる愚行であろう。
誤解されがちであるが、寛容とは、悪の蔓延を許し、放置してもよいという意味では決してない。池田名誉会長は、かつてこう語っている。
「権力の悪に対して『寛容』であってはならない。どこまでも『人間』と『民衆』の側に立って、徹底的に非暴力で戦う、対話で『善』を拡大する――そのダイナミックな『すべての人々への開かれたかかわり』の姿勢こそ『寛容』なのです」
人間、一人一人に違いがあることは当然である。違いがあるからこそその差異を互いに認め合い、理解を深めるために「対話」をするのだ。
仏典に説かれる不軽菩薩は、石を投げられながらも相手を尊敬し続けた。寛容の精神を体現するには勇気が必要である。今こそ「勇気の対話」を広げながら、寛容の精神あふれる世界を共々に築いていきたい。















