~ よしとみマンがめざすもの ~ 5つのStory
Story 1 「だれもがくらしやすいまち 松山」をめざして
多様な市民ニーズに応えるため、バリアフリーとユニバーサルデザインを推進します。
高校を卒業し、大学進学をめざして受験勉強を始めた四月、父が脳梗塞で倒れました。医師からは「1週間がヤマです」との一言。私は1週間、病院に泊まり込んで付き添い、治療の甲斐もあって、父は一命を取り留めることができました。それからは、毎日のリハビリが始まりました。
最初は寝返りすら打てなかった父が、横を向けるようになり、ベッドに座れるようになり、自分の手で食事ができるようになり、歩いてトイレに行けるようになるまで、毎日、午前中は予備校に午後は病院に通いました。それこそ、下の世話から食事や着替えの介助、リハビリの付き添いなど、何でもしました。回復が進み、一緒に階段を昇り降りしたり、ゆっくりグランドを歩いたりするようになって、夏を迎えるころ、父は退院することができました。
こうして自分自身が父の介護を経験する中で、また、医師や看護師、リハビリの先生方の姿を通じて、「将来は、人のためになる仕事をしたい」、「医療・福祉の道に進みたい」と思ったのが、後に私が福祉の道に進むことになった原点です。また、だからこそ、若くして家族の介護をしなければならなくなった「ヤングケアラー」の存在は、自身の経験と重なって、気になって仕方がありません。
経済的な課題もあり、創価大学卒業後は大手商社の関連会社に勤め、都内を営業で奔走しました。しかし、福祉の志止み難く、結婚を機に転職。知的障がい者支援の老舗である東京の社会福祉法人の都外施設に支援員として勤務することとなりました。重度の方が多く、早・遅・夜勤・日勤のシフト勤務で、利用者の方たちの暮らしに入り、生活・就労支援を提供しました。その中で、てんかん発作への対処や自閉症の方へのかかわり方などを学びました。
平成10年からは愛媛県の外郭の社会福祉法人に勤務。知的障がいのある方の入所更生施設で職業訓練・生活指導に携わりました。農業を通じた訓練・作業では、分業で適切な作業を振り分ける必要があり、また、生産物の品質と収量向上のための工夫が欠かせませんでした。農業の担い手を確保し、障がいのある方の就業機会を創るために、「農福連携」は有効な手法だと思います。
異動して道後では、通勤寮の支援員、グループホームのサービス管理責任者、そして、えひめ障がい者就業・生活支援センターの生活支援員を兼務。障がいのある方の仕事と生活を主に暮らしの場から支援してきました。その中で、職安をはじめ雇用の関係機関、企業、行政、相談支援機関、各種の窓口、団体、そして、ご家族など、たくさんの関係者の方々とお会いし、連携しました。周囲の人々の理解と態度が障がいのある方の活動と参加に大きく影響することを、道後では身をもって知ることができました。また、そうした環境づくりの要を担う相談支援の重要性を認識しました。
振り返れば、私が大学に進学した平成元年は社会福祉士・介護福祉士の国家資格が始動した年でした。そして、私が福祉の現場に在職している間に障害者自立支援法が施行され、福祉の枠組みは大きく変わりました。措置から契約へ。地域生活への移行。就労支援の抜本的強化。そして、福祉の実施主体は原則、市町村になりました。
まちには、こどもも大人も高齢者も、障がいのある人もない人も住んでいます。それぞれに対応する施策を進めるとともに、様々なニーズを持つ市民がともどもに暮らしていることを大前提にして、市政は行われるべきです。「だれもがくらしやすいまち 松山」であるために、多様な市民ニーズに応えるバリアフリーとユニバーサルデザインを推進します。
バリアフリー:物理的な障壁のみならず、社会的、制度的、心理的なすべての障壁に対処するという考え方
ユニバーサルデザイン:施設や製品等については新しいバリアが生じないよう誰にとっても利用しやすくデザインするという考え方
Story 2 「ひとりひとりが輝けるまち 松山」をめざして
特に、若い人が輝ける働き方を創出します。
好きで、生活ができて、世の役に立つ。そんな3拍子揃った仕事ができれば良いのでしょうが、最初からすべて満たすのはなかなか難しいようです。80年代のバブルが崩壊したのがちょうど大学在学中で、私はまさに「就職氷河期」1期生でした。そして、この「就職氷河期」は意外なほど長引くこととなりました。
平成23年秋、公明党青年局は全国で「若者雇用実態調査」を実施し、若者の就業におけるミスマッチの状況を調査しました。私は調査結果を踏まえ、松山市議会で問題を提起。その結果、市が関与する合同就職面接会などが拡充されることとなりました。近年では国の金融緩和・財政政策・成長戦略が功を奏し、正社員の有効求人倍率は史上初の1倍超えが続いています。若い人が自分の希望する道に進んで行く機会が、ようやく確保されてきました。
一方で働き方改革にも関心が高まっています。仕事と生活のバランスをとっていくことは、生活を豊かにするために、また、子育てや介護との両立を図るために、そして何より、健康に働き続けるために必要なことです。私は働き方改革の象徴として、月曜午前半休やプレミアムフライデーなどの導入も提案してきました。好きで、生活ができて、世の役に立つ仕事、そして、バランスのとれた働き方ができるよう、これからも若い人たちの「はたらく」を応援していきます。
現在、私は公明党愛媛県本部の青年局長を務めています。ミスマッチの状況を探る「若者雇用実態調査」や青年政策アンケート調査「ボイス・アクション」などを、青年党員・支持者の皆様の協力をいただいて推進してきました。皆さんの声から新しい政策が生まれ、皆さんの後押しで政策が推進される、公明党青年局には政策実現のための理想的なサイクルがあります。私は青年の皆さんとともに、「ひとりひとりが輝けるまち 松山」をめざします。
例えば、松山市平成29年9月定例会では、青年局懇談会でのご意見を受けて公明党議員団は次のような議会質問をしました。
「結婚しやすい環境づくりについて」
(1)市有施設での格安の結婚式について
(2)補助金や祝い金の支給等、経済的支援について
①結婚新生活支援事業費補助金制度の実施について
②市営住宅への新婚カップル入居優遇制度について
③結婚祝い金の支給を開始することについて
Story 3 「こどもがのびのび育つまち 松山」をめざして
こどもの安全と成長を支える「教育のための社会」の形成を図ります。
私は市立拓南中学校のPTA会長を3年間、愛媛県立松山中央高等学校PTA副会長を2年間経験させていただき、現在は拓南中学校教育後援会会長をさせていただいています。こどもの安全と成長こそ親の願い。生徒のために、学校のためにとの一心でPTA活動に取り組んできましたが、PTA活動を通じて、より深く、学校のことを知ることができ、また、先生方や保護者の皆様、地域の方々と親交を結ぶこともでき、本当に感謝しています。
地域には、善意の協力者の方々がたくさんいらっしゃいます。常日頃からこどもたちを見守り、学校を支えてくださっている地域の方々への感謝は尽きません。私は学校・保護者、そして、地域社会の方々の協力も得ながら、「こどもがのびのび育つまち 松山」をめざし、こどもの安全と成長を支える「教育のための社会」の形成を図っていきたいと思います。
こどもの成長とともに時々の課題も変わってきますが、その一つに重過ぎる教育負担があります。今年・平成29年の衆議院選挙において、ようやく本格的に「教育への投資」が議論され始めましたが、これは大きな変化です。松山市議会公明党の予算要望でも求めていますが、本市としても、幼児教育の無償化や小中学生までの医療費無料化に是非とも取り組んでいただきたいと思います。また、本市の保育サービスの提供体制は年々拡充しているものの、新たな保育ニーズに追いつかず、待機児童の解消は課題として残されたままです。
今年は日本学生支援機構が提供している奨学金制度が大きく変わりました。ひとつには、返済が不要な「給付型奨学金」が一部先行実施されました。また、無利子奨学金の今年度採用者から、卒業後は所得に応じた返還ができる「所得連動返還型奨学金」も始まりました。学ぶ意欲のある方の学ぶ機会を守っていく。そのために、松山市独自の奨学資金制度においても給付型奨学金やUターン者への助成の実施について、私は議会質問で提起しています。
Story 4 「文化創造のまち 松山」をめざして
皆が文化・芸術を楽しめる環境づくりとアートを通じたまちづくりを推進します。
美術館など博物館における専門職を学芸員と言い、作品や資料の収集・保管・展示、研究・教育を行っています。私は本物に触れることができる博物館が好きで、創価大学在学中に学芸員課程を履修。様々な博物館を見学し、東京富士美術館での実習を経て、学芸員の資格を取得しました。松山は言わずと知れた、温泉と城と文学のまちであり、俳句王国です。このまちに美術・アートの要素が加わったら大変面白いだろうと、かねてから思っていました。
先進事例の視察を重ねる中、平成23年秋には群馬県の「中之条ビエンナーレ」を視察しました。ビエンナーレとは2年に1度開催されるアートの祭典のこと。町の7割を山林が占め、人口減少が止まらない中之条町では、地元美学校出身者らが運動を起こして「中之条ビエンナーレ」を開催。ビエンナーレでは国内外から多くのアーティストが集い、木造校舎や商店街の廃屋などを活用して町全体を美術館に変えてしまいます。各展示場を回るには、とにかく歩く。歩くことで町を知ることができ、人情の機微に触れる機会がたくさんありました。視察を踏まえ、平成24年9月議会では「まち全体がアートになる」アートの祭典・ビエンナーレの開催について一般質問で提案。また、平成25年3月議会では、思うままの表現であるアール・ブリュットの普及について一般質問をしました。
松山市では平成25年末から1年間、道後温泉本館改築120周年を記念する国際芸術祭「道後オンセナート2014」が開催され、以降毎年、道後を舞台にしたアートのイベント「道後アート」が開催され、好評を博しています。これからも私は「文化創造のまち 松山」をめざし、皆が文化・芸術を楽しめる環境づくりと、アートを通じたまちづくりを推進していきます。
Story 5 「世界にひらかれたまち 松山」をめざして
アジアをはじめ世界とつながるネットワークづくりをめざします。
平成29年1月、私は市議会海外都市行政視察団に参加させていただき、姉妹都市のドイツ・フライブルク市を表敬訪問しました。姉妹都市の提携を結んで28年。同市役所前広場には姉妹都市提携を記念して、松山市の市章が埋め込まれています。路上の大きな松山市章を前に、遥かな距離を超える交流に感慨を深くしました。今回の視察団が友好を深める一助になれば大変嬉しいことですし、民間も含めた往来を推進していきたいと思います。
サロモン市長を囲んだ昼食会では、フライブルク市の産業・経済と人口対策について、公共交通政策とまちづくりについて、そして、外国人労働者に関わることなどについて、活発に意見交換がなされました。同市では若い人の子育てサポートに努め、収入が少ない人への家賃補助などを行うなど、人が集まる市をめざしています。また、ドイツ国内で「環境首都」にも選ばれるほど、環境政策の進んだまちとしても知られています。そうした先進的な取り組みは松山市政にも大きなインパクトを与えています。海外の先進事例は発想の転換を促す大きなきっかけになるようです。
現在、松山市はフライブルク市の他、アメリカのサクラメント市と姉妹都市提携を結び、大韓民国の平澤市との友好都市提携、台湾の台北市とは友好交流協定を結んでいます。グローバル化の進展に伴い地球規模で都市間交流が進んでいますが、古来、瀬戸内海は海の大動脈でした。その瀬戸内海に面する松山は「世界にひらかれたまち」として、いっそう、アジアをはじめ世界とつながる歴史的・地理的な背景を持っている。そう確信しています。
2017年11月13日 吉冨健一
イラスト H