昨日10/10.太田市議といっしょに子規記念博物館を訪問。盲目の社会運動家・森盲天外(もうてんがい)の生誕150周年を記念して、子規記念博物館で特集展示が開催されています。

森盲天外・本名恒太郎は正岡子規から俳句を学んだ俳人であり、余土村(現在の松山市余戸)の村長として郷土の発展に尽くしました。

★ 特集展示「森盲天外-生誕150周年-」を開催!!

<特別展示の内容>

1.森盲天外の俳句や書の展示

  • 平成26年9月27日(土)~平成27年3月27日(金)
  • 子規記念博物館常設展示室3階/特集コーナー

2.森盲天外の生涯を紹介するパネル展示

  • 平成26年9月27日(土)~10月12日(日)
  • 子規記念博物館1階ロビー

※パネル展示は希望により、市内小中学校や公共施設等への貸出巡回展示を予定

 貸出期間は平成26年10月14日(火)~平成27年3月27日(金)

学芸員の上田さんから、改めて展示内容の説明を受けました。

本年は、森盲天外が誕生してから150年という節目の年になります。

森盲天外は元治元(1864) 年、現在の松山市余戸に生まれました。愛媛県北予変則中学校(松出中学校)で民権派の校長・草間時福の教えを受け、上京して中村敬宇の同人社に学びます。帰郷後は予讃新報の刊行や県会議員を務めるなど、多方面で活躍しました。

しかし、盲天外は明治27年から眼に異常を感じ、2 年後には両眼とも失明します。三度にわたり自殺を企てた盲天外でしたが、一粒の米が人間の肉体や精神にまで進化を及ぼすことを悟り、世のために自分の身を役立てようと決心します。

明治31年、盲天外は余土村の村長に就任。青少年教育や農地改革などを柱とする「余土村是」を作成し、全国的に高い評価を受けました。また盲唖学校設立に関与し、後年には道後に「天心園」を創設して青年たちの教育や相談に応ずるなど、生涯にわたって社会教化に力を尽くしました。

盲天外ははじめ孤鶴と号して句作し、明治24年には俳誌「はせを影」を刊行します。同誌には、当時学生であった子規も寄稿しました。さらには松山の子規派俳句結社「松風会」に参加し、子規から句作指導を受けます。また、農学者の新渡戸稲造とも親交があり、昭和7 年には新渡戸を松山に招いています。

著に『一粒米』,他

(以上、学芸員の説明要旨)

森盲天外を顕彰することについては、「一粒米の会」今岡さんが一貫して尽力されています。初めてのご相談は4年前の平成22年10月。今岡さんは喫茶店にたくさんの資料を持ち込まれ、

行政や関係者の協力がなかなか得られない。松山市は郷土の偉人・盲天外をもっと顕彰すべきではないのか。それが、文化じゃないですか

と訴えられました。

行政が特定の個人を顕彰するときの妥当性や市民の意識や取り組みなど、よしとみ自身もよく検証する必要があり、何より、史実を知る必要を感じました。

そして、知るほどに、盲天外の革新性・先進性、人間の可能性を実証する足跡に感嘆。盲天外は新渡戸稲造博士とも親交が深く、昭和7年2月、新渡戸氏は盲天外に招かれ来松しています。しかし、ここ松山での発言が軍部の強い反発を受け、それが新渡戸氏渡米の原因ともなったようです。(松山事件)

こうした史実を踏まえ、今岡さんの情熱に後押しされて、よしとみは平成24年9月定例会で一般質問しました。

「松山事件」、歴史的にも大きな意味があると思われます。そこで、「松山事件」から80周年のこの機会に、例えば子規記念館等に記念碑や看板を設置、展示・紹介するなど、ご当地からも何らかの発信をすべきだと思いますが、お考えをお示しください。

2点目に、郷土の偉人 森盲天外についての本市の認識はどうか。また、その足跡をゆかりの地で顕彰してはどうかと考えますが、ご所見をお示しください。

このたび、道後温泉駅前・商店街入口の放生園にある盲天さんの句碑には、かねてから要望していた説明の版が設置されました!!

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