ブログバックナンバー
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福井市 西本恵一
nishimotokei@ybb.ne.jp
バックナンバー 2008年 3月 24日

 大学を卒業してから地元のコンピュータ会社に入社し、技術研究室という新設の部署に配属されました。当時はパソコンなどなくて、大型コンピュータ全盛の時代で、研修もカードパンチで行っていました。最初の1ヶ月間でコンピュータの仕組みやプログラムの基礎を学び、それから実践です。

 1年後、神奈川県秦野市にある日立製作所のソフトウェアの総本山・秦野工場に転勤になりました。
 神奈川県には学生時代にお世話になった先輩がおり、常々神奈川県に行きたいなあと願っておりましたので、渡りに船とばかりに、不安と期待を込めて転勤したのを覚えています。

 仕事は、IBM製の大型コンピュータ用データベースをワークステーション(パソコンより機能が優れているもの)に移植するもので、C言語と呼ばれるプログラミング言語を使います。

 初めて接するUNIXというオペレーションシステム(コンピュータの脳)とC言語です。さっぱりわからないのに研修もないままに仕事を任されます。いきなり、業務スケジュールが示され、いついつまでに完成せよと指示が下るのです。

 渡されたのは、机の上に20cm以上ある膨大な資料と市販のC言語の本1冊。

 早速、C言語を勉強し始めたのですが、習得するまでは不明な点をあたりかまわず周りの社員に聞きまくりました。

 転勤して、2ヶ月間はC言語が毎日夢に出てきました。さらに、UNIXというオペレーティングシステムも同時に習得しなければならず、かつ、その中で業務も進めなければなりません。今から考えても、何の研修もないままで無茶苦茶な仕事の割り振り方でした。

 日立の社員は東大や京大など一流と一応言われている大学を卒業したものが多く、そのペースで仕事を任せれたのでは、たまったものではありません。私の上司は東京工業大学、その上の主任は東京大学、課長は京都大学でした。

 それでも、数学やパズルが得意だった私は、わりかし飲み込みは早く、仕事も何とかやりこなしていました。ところが、テストまで進んだ段階で、日立製作所とIBMの間で産業スパイ問題が惹起し、手がけていたIBM製データベースの移植が中止になったのです。

 すぐに、次の大手データベース社との交渉が進められ、UNIFY製のデータベースを利用することが決まりました。

 私は、そのデータベースをまた一から勉強し、C言語プログラミングとデータベースのインターフェース(双方の間を取り持つ部分)であるSQL言語変換の作成を一人で任されることになりました。

 不明な点があれば、小田急沿線にある柿生というところにある日立製作所の研究所に通い、そこでも社員に聞きまくりながら、解決していくのです。

 黙って仕事をしていても、誰もかまってくれないので、自ら問題提起して尋ねなければなりません。

 それでも、どうしても不明な点があったので、アメリカからそのデータベース技術者を日本に呼んで、1週間一緒になって缶詰で問題解決を図ったこともありました。英語が苦手な私は、ほとんど会話が成り立ちません。ただし、テクニカルターム(技術的な内容の単語)はわかったので、上司のうまくない通訳を通しながら、四苦八苦して取り組みました。

 なんとか完成し、日立製作所ブランドで全国販売しはじめました。最初のユーザは神奈川県企業局でした。

数年後に広まる技術の先取り習得。

 オペレーティングシステムであるUNIX
 プログラム言語であるC言語
 ワークステーション用データベース
 SQL言語

と、私が開発していた当時は、世の中のほとんどの技術者が手をつけていなかった分野であり、数年後に少しづつポピュラーになって使用され広がっていくのですが、この時の経験は私のスキル(技術力)を大きく高めた機会でした。

 それにしても仕事の進め方は強引でした。とにかく自分で率先して取り組まないと誰も教えてくれません。ほったらかしです。文句を言っても仕事は進みません。やらなければ「できない奴」と烙印を押されるだけです。

 「仕事は、誰かが教えてくれるもの。教えない側に問題がある。」と、何もしないで愚痴ばかり言っていても、結局取り残されるだけの環境でした。

指示がされないと仕事ができない人と自分から作りあげる人

 仕事は、与えられるまで待つ人や教えてくれないと愚痴を言う人と、自分から率先して仕事を作り研究する人の大きく分けて2つのパターンにわかれるようです。

 私は、大事な視点を前の職場の社長に教えていただきました。
 「もし、会社が倒産したとしても、どこへ行っても使える人間になることだ」と。

 自分のやるべきことは自分で見つけて、自分で挑戦し、自分で課題を乗り越えて、自分で結果を出していくものです。もちろん、一人ではできないこともたくさんありますから、いろいろな人にアドバイスを受け、みんなと団子になって取り組む必要はありますが、その根っこは、自分の「やる気・ベクトル」にあります。

 私が、議員になったときに、ある衆議院議員から言われたことがあります。
 「誰かが手取り足取り教えてくれると思ったら大間違いです。自分で学ぶんです。わからなければ聞くんです。」と。

 この日立製作所の仕事の経験は、その意味では私にとってありがたいものでした。今でも、その頃一緒に業務に携わった社員(東京の研究所にいます)とは仲良くしています。