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川口市 萩原一寿
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image広島東洋カープの黒田博樹投手が引退を表明しました。黒田投手は、広島からメジャーリーグにわたりドジャース、ヤンキースと名門チームで大活躍。昨年に高額のオファーを断り広島に復帰し、今年に通算203勝を挙げ、25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。そして、突然の引退表明。惜しむ声が多いのは当然です。最高の舞台から古巣に戻り、最高の結果を出し去って行く。すごい引き際だと思います。

 
黒田投手は大阪の名門上宮高校出身。3年間で公式戦での登板は、ほとんどない3番手だったそうです。大学進学時に声をかけてきたのは、無名の甲南大学のみ。

 

本人は、自身の著書「決めて断つ」の中で、当時の心境をこう明かしています。
〈地元である関西圏だし、そこで野球を楽しみながら続けよう〉
しかし、母・靖子さんは黒田の決断を覆す、予期せぬ言葉を口にするのでした。
「頼むから家から出てってくれ」また、元プロ野球選手の父・一博さんも、「もう一回、勝負をしてみたらどうだ」と諦めかけていた野球への情熱を後押ししたのです。

 
結果、東都大学リーグの古豪・専修大学のセレクションを受けることを決意。黒田投手の将来性を見い出したが、当時、野球部だった望月監督です。監督の奔走により実績が全く無い黒田投手が入学を果たします。しかし、大学に入っても肩の故障や野球部内の上下関係に馴染めないなど苦労の日々が続きます。

 
望月監督は、黒田の眠っている才能を開花させるには自信を植え付けることが、最も重要だと考えます。そのために、肩の故障が癒えた2年の秋から公式戦でもどんどん球を放らせたそうです。「打たれても、フォアボールを出しても、我慢して使い続けました。もともと責任感が強いタイプでしたから、我々の期待に応えようと、くさらずに真摯に野球に打ち込んだ結果、徐々に頭角を現していった」

 
二十数年にわたり専修大学野球部の指揮を執った望月監督は、のちにプロ入りする選手を何人も見てきたが、その中でも「黒田は最も努力した選手」と断言しています。そうして専修大学は1部リーグに昇格。翌年に広島にドラフト2位で入団。

 
1年目は先発ローテーションとして6勝を挙げたが、2年目はわずか1勝止まり。そこで、下半身を強化するトレーニングをいち早く取り入れて、肉体改造にも励みます。広島球場でナイターが終わったあとも1人黙々と体幹トレーニングやストレッチに取り組んでいたそうです。こうした地道な努力の積み重ねが、メンタル面に課題を残していた投手を日本球界を代表する投手へと成長させていきます。そしてメジャー移籍後も黒田の真摯な姿勢はまったくブレることがなかったのです。

 
専修大学の入学式で、黒田投手は新入生にこのようなエールを送っています。
「18年間のプロ野球生活を通じて感じることは、『成長するためには自分で考えるという覚悟が必要』ということです」

 
広島時代に黒田とバッテリーを組んでいた西山秀二氏はこう述べています。「常に目の前を走るライバルの背中を追い越そうと、自分自身に言い訳することなく、地道に前へと進み続けてきた。実は黒田の野球人生は『ウサギとカメ』のカメなんです」(広島・黒田博樹「不屈の野球道」から)

 
黒田投手の座右の銘は、西郷隆盛が甥に贈ったとされる漢詩「雪に耐えて梅花麗し」。若き日の苦労が、後になって光り輝いていく。素晴らしい投手だと思います。

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