【父の思い出】
8月15日終戦の日になると、私は40年前に亡くなった、我が家で唯一軍隊経験のある父を思い出す。父が51歳で亡くなったとき私は高校を卒業したばかりの18才。青春真っただ中で父から戦争体験、特に軍隊生活について詳しく聞こうなどと思ったこともなかった。
それでも、断片的には、東京大空襲の直前、中央大学の学生だった時に学徒出陣で出征したこと、霞ケ浦のそばの軍事施設で訓練中に終戦を迎え戦地には行っていないこと、厳しい訓練で毎日のように殴られていたこと、などなどを聞いているが、そもそも陸軍なのか海軍だったのか、また霞ケ浦のそばのどこだったのかも聞いていない。母に尋ねても詳しくは話さなかったそうである。
大正15年生まれの父は私たち子どもにとりとても怖い存在で、語り合うといったことがなく、そもそも父の子どもの頃の話もあまり聞いた記憶がない。おそらく、18才で出征し19才で敗戦を迎えたと想像される。想像されるといわざるを得ないのは、不肖の息子である。
成人し、社会人となってから酒好きな父と酒を酌み交わしながら人生の来し方を語り合えたらな、と何度思ったことか。
商売をしていた父は毎晩晩酌をしていた。私が中学生になったころから体調を崩し、酒量は減ってきたが、それでも気分がよくなると鼻歌を歌いながら飲んでいたことを思い出す。
その中の一曲に、小林旭さんの「惜別の歌」がある。特に気に留めるでもなく好きなんだなといった程度の感想しかもっていなかったが、父の死後数十年たって(私が区議会議員になったころと記憶するが)、惜別の歌が、実は中央大学の学生歌であることを知った。昭和19年、島崎藤村の詩に父と同世代の学生が曲をつけたそうである。出征前後に、惜別の歌を唄いながら、友を送りまた自らも見送られたのであろうか。今となっては父の心情を推し量ることはできないが・・・
さて、その中央大学が2年ほど前の戦後70年を機に学徒出陣について調査をしたと知った。中央大学に照会し、父の足跡の一端でも調査したいと思っている。が、まだできていない。やはり不肖の息子である。
宮本亜門さん演出によるリーディング公演「画狂人 北斎」が7月27日に大英博物館で行われる!
私は1月7日にすみだ北斎美術館で開催された公演を観ました。あくまでフィクションですが、北斎に対する亜門さんの思いの詰まった素晴らしいストーリーでした。
特に、戯作者・柳亭種彦と北斎との交流や、墨田区が復元した「須佐之男命厄神退治之図」、西新井大師にある「弘法大師州法図」、小布施の北斎館にある祭屋台の「怒涛図」を開国の未来予想図と断じる場面が描かれるなど、私が北斎ファンになるきっかけとなった『北斎の隠し絵』という本を亜門さんも参考にしたことを後で知り、心強く思いました。
これにより、北斎の魅力がこれまで以上に世界に発信されることを期待したいですね。
上方落語の若手の雄・桂春蝶さんの落語会「明日ある君へ ~知覧特攻物語~」が開かれました。
5年前に南九州市の知覧特攻平和開館を訪問した春蝶さんは、犠牲となった隊員たちの遺書や遺品に触れ、いつか作品にしたいと決意したそうです。
創作落語ですが、重いテーマであるにもかかわらず、合間に笑いをとる場面もあり、それでいて、きちっと平和の大切さと明日があることへの感謝の思いが聴く者に伝わる、素晴らしい内容でした。
特攻隊そのものを描くのではなく、入院した祖父を見守っていた孫が、夢の中でタイムスリップして特攻隊員と出会うというもの。その出会った特攻隊員が実は目の前の祖父で、その祖父が、終生大事にしていた桜の押し花の逸話がそこで明らかになるなど、涙もろい私は、思わず涙をこぼしてしまいました。
2月に大阪で初演。今回が2度目だそうですが、ぜひ継続していただきたいなと感じました。
今回の落語会の内容が伝わると、春蝶さんのもとに「戦争を賛美するのか?」とか「特攻を美化するのか?」などと、誤解と偏見に満ちたコメントが寄せられたそうですが、誤解や偏見を相手にせず、知覧で感じたことを伝えていく活動を信念を持って続けていただきたいと思います。
できれば、教育現場で、こどもたちとその親に語っていただきたいなと痛感しました。
私にとってのマイブーム・・・それは、歌舞伎です。
今月歌舞伎座がリニューアルオープンしたからではありません。
昨年、ある歌舞伎関係者から、「墨田区は歌舞伎とゆかりが深いのだから、まちおこしに活かしたら!」とご提案いただいたのがきっかけです。
すみだと歌舞伎? ン?? 疑問にしたままでは気が済まないたちですので、それから調査を始めました。
正直なところ資料があまり残っていないのが残念ですが、それでも少しずつわかってきました。明治期には浅草の猿若三座ならぬ両国三座があったそうですが、これは西両国すなわち台東区・中央区側にあった芝居小屋のことでした(そのうちの一つが今の明治座です)
江戸・明治期の庶民の楽しみは寄席と芝居・・・墨田区は浅草に負けぬほど寄席などもあったようですから、大衆演芸でにぎわっていた街だったんですね!
昭和30年代までに系統だった調査を実施していれば、もう少しすみだの文化史が明らかにできたのではないかと考えるととても残念です。
歌舞伎とのつながりでは、小芝居を上演していた「寿座(寿劇場)」があります。
今では、緑2丁目の一角に、記念の史跡があるのみです。
銘文には次のように書いてありました。
『 本所相生町(あいおいちょう)五丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治二五年廃絶したが、廃絶を惜しむ声に支えられ、明治三一年、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居(こしばい)劇場として開座した。幾多の名優の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜しくも昭和二〇年二月閉座、同年三月一〇日戦災により焼失し、その幕を閉じた。
昭和六十一年三月 墨田区 』
芥川龍之介の「本所両国」に出てきますし、三島由紀夫も何度か芝居を観に行った記録が残っています。
ファミリーレストランの一角にあるのですが、往時のにぎわいをしのぶことができないほど、ひっそりとしていました。
寿座そのものの写真が一枚しか残っておらず残念です。昭和に入ってからは、映画にとって代わられた面もあり衰退したようですが、戦災とともに焼失してしまった結果、人々の記憶からも、まちの記憶からも忘れ去られてしまいました。
しかし、寿座で演じていた坂東竹若さんなどが中心となり戦後「かたばみ座」という劇団を立ち上げ、浅草松屋内にあった「すみだ劇場」で小芝居を続けていたことが分かりました。
さらに、この「かたばみ座」が昭和36年まで継続され、日本で最後まで小芝居を上演していた最後の劇団であったことも分かりました。
現在、全国で200以上の地芝居、農村歌舞伎など伝統芸能を守るための活動は行われていますが、プロとして上演しているものとしては「かたばみ座」が最後のようです。
こうした歴史がわかると、なんとか墨田区において小芝居を復活できないかなと考えるようになってきました。
伝統文化の普及や人材育成に取り組もうと思い、特にこどもたちに歌舞伎に接してもらいたいなと考えネットで「こども歌舞伎」と検索したら、全国でさまざまな取り組みをしていることが分かりました。
そのうちの一つが3月30日のブログで書いた「こども・若草歌舞伎」です。
こうした他の自治体の事例も参考にして、すみだで実現できたらなと、真剣に考えているところです。
また、進展したら報告させていただきます。
現在墨田区議会は予算特別委員会の真っ最中。私は委員ではないので傍聴しているだけですが、白熱したとはいえないまでも熱心に議論が進んでいます。
なかでも注目していたのが、今年秋に着工される予定の北斎美術館。反対派の議員も多いので、データに基づいて区長を追い込むぐらいの厳しい追及がなされるかと予想していましたが、予想に反し、今のところあまり盛り上がっていません。
会派としてこれまで議論をし態度を決めてきたのですが、個人的としてもそれなりに北斎について学んできました。
そこで、一般的にあまり知られていないことを中心に、北斎に係ることを、今後少しずつ紹介していきたいと思います。
今回は北斎の晩年の弟子・本間北曜について紹介します。
本間北曜・・・本名は本間郡兵衛。庄内藩出身
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれるほど江戸時代の豪商、大地主・本間家の分家に生まれています。幼少より学問を好んだようですが、ちょっとやんちゃだったようで、養子に出されたものの養家とうまくいかず出奔。江戸に出ていた折、22歳で北斎の弟子となっています。すでに北斎は84歳。亡くなるまでの足かけ6年、北曜は青年期を北斎の弟子として過ごすこととなります。
北曜はこのころすでにオランダ語を学んでいたようで、弟子志願者を追い返していた北斎が晩年に北曜を正式な弟子として迎えたのは、北曜が蘭学の心得があったことが影響していると思われます。
この北曜、北斎の最晩年には、京都、長崎を旅し、また、同郷の後輩清河八郎や勝海舟などとの交流をはじめ、長崎にも行っています。のちに勝塾で蘭学講師を務めるなど、早くから開明的な思想の持ち主だったであろうことがうかがえます。
北斎が亡くなって4年後にペリーが来航したときは、誰から命令されるわけではなく浦賀に行き黒船をスケッチ。現在山形県酒田市の本間美術館にその絵が残っているとのことなので、いつか見に行こうと思っています。
その後ふたたび長崎に行き、フルベッキから英語を学んでいます。1862年には欧米や清を外遊。西洋諸国の発展を目の当たりにし、このままでは日本は外国資本にやられてしまうと危機感を抱いたんだと思います。このころ薩摩藩の招へいでジョン万次郎とともに薩摩の開成所の英語教師となっています。そのような中で、西郷隆盛や小松帯刀などとも交流を持ち、日本初の株式会社の設立を構想しました。坂本龍馬よりも早かったんですね。
故郷の本間家にこの「薩州商社」への参加を求めに帰郷しましたが、戊辰戦争の直前であったため薩摩藩のスパイと疑われ幽閉。その後毒殺されたといわれています。享年47歳。庄内藩は会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中核だったんですね。
会津藩降伏後、庄内藩も降伏します。会津藩27万石に下された処置は、厳寒の陸奥斗南藩3万石に追いやられるという苛烈なものでした。対して同じ賊軍だった庄内藩は、石高を5万石削られたのみでした。
その理由は、庄内藩降伏後鶴岡城に入った西郷隆盛の寛大な処置によるものと伝わっています。庄内藩主酒井氏の西郷隆盛への感謝の念は大変なものがあったようです。その後も庄内の人々へ西郷隆盛に対する敬慕の情は伝わり、今では鶴岡市と鹿児島市は兄弟都市となっています。
私には、西郷隆盛の庄内藩に対する寛大な処置は、西郷より5歳年長の本間北陽(郡兵衛)の存在があったからではないかと思われてなりません。西郷と本間北曜は薩摩だけではなく京都・大坂でも行動を共にしています。いわば同士でもあり師でもあります。実際、「羽州荘内とくに酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と西郷隆盛が黒田清隆に言ったと伝わっているそうです。
北曜(郡兵衛)の死は1968年7月。庄内藩降伏の2カ月前のことです。あとすこし北曜が生きながらえていたら、もっと歴史に名を残す大きな人物となっていたのではないかと考えると残念でなりません。そして、日本初の株式会社が設立されていたら酒田港が東北の交易の中心になっていたかもしれません。
北曜の死は北斎の死から19年後のことですが、西洋の知識を持ち、京都・大坂・長崎・薩摩・酒田と幕末の志士のように活動した原点は、青年時代の北斎との出会いにあったのではないかと私には思われてなりません。
北斎は最晩年89歳のときに、長崎に旅立つ北曜に対し「鬼図」という絵を贈っています。また入門したてのころに手本として「獅子の図」を与えています。北曜はそれらを生涯大切にしていたようです。特に「鬼図」には北斎の死から2年後に北曜の郷里の師・池田玄斎という人物が絵の左上に狂歌を書き込んでいます。それは、「世の中は虎狼もなのみにて 衣をきたるおにぞかしこき」というもの。絵をご覧いただけないのが残念ですが、北斎の思いを解釈したものと考えるのが自然でしょう。
残念ながら、この歌の意味を正確に解釈したものはいないようですが、ある程度推測は成り立ちます。歴史の上では定説ではありませんが、北曜のその後の行動を観れば、北斎が自らの考えを北曜に伝えていたといってよいのではないかと思います。
東京スカイツリー®のすぐわきにある大横川親水公園の菖蒲がまもなく満開を迎えます。
癒しの場として、また写真撮影のスポットとして人気が出るのではないかと思っているのですが、残念なことにすぐそばまで行くことができません。
写真の手前側に業平橋があるのですが、耐震工事がまだ終わっていないからです。残念!!(ToT)/~~~
東京都が管理している橋なので都が実施しているのですが、遅れ気味なようです。
遅れた理由はさまざまあるのでしょうが、スカイツリーの開業までに何とか終わらせようと努力した形跡は見られません。
スカイツリー関連事業に関しては、東京都は墨田区に対し協力的だったとは残念ながら言えません。ほかにも同様の事例がありますが、ここでは触れません。
工事の終了まであと1カ月前後かかるようなので、今年の菖蒲の見頃は過ぎてしまうかもしれませんが、池にはコイなどもいるようなので整備終了までもう少し我慢したいと思います。












