北斎晩年の弟子 本間北曜
現在墨田区議会は予算特別委員会の真っ最中。私は委員ではないので傍聴しているだけですが、白熱したとはいえないまでも熱心に議論が進んでいます。
なかでも注目していたのが、今年秋に着工される予定の北斎美術館。反対派の議員も多いので、データに基づいて区長を追い込むぐらいの厳しい追及がなされるかと予想していましたが、予想に反し、今のところあまり盛り上がっていません。
会派としてこれまで議論をし態度を決めてきたのですが、個人的としてもそれなりに北斎について学んできました。
そこで、一般的にあまり知られていないことを中心に、北斎に係ることを、今後少しずつ紹介していきたいと思います。
今回は北斎の晩年の弟子・本間北曜について紹介します。
本間北曜・・・本名は本間郡兵衛。庄内藩出身
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれるほど江戸時代の豪商、大地主・本間家の分家に生まれています。幼少より学問を好んだようですが、ちょっとやんちゃだったようで、養子に出されたものの養家とうまくいかず出奔。江戸に出ていた折、22歳で北斎の弟子となっています。すでに北斎は84歳。亡くなるまでの足かけ6年、北曜は青年期を北斎の弟子として過ごすこととなります。
北曜はこのころすでにオランダ語を学んでいたようで、弟子志願者を追い返していた北斎が晩年に北曜を正式な弟子として迎えたのは、北曜が蘭学の心得があったことが影響していると思われます。
この北曜、北斎の最晩年には、京都、長崎を旅し、また、同郷の後輩清河八郎や勝海舟などとの交流をはじめ、長崎にも行っています。のちに勝塾で蘭学講師を務めるなど、早くから開明的な思想の持ち主だったであろうことがうかがえます。
北斎が亡くなって4年後にペリーが来航したときは、誰から命令されるわけではなく浦賀に行き黒船をスケッチ。現在山形県酒田市の本間美術館にその絵が残っているとのことなので、いつか見に行こうと思っています。
その後ふたたび長崎に行き、フルベッキから英語を学んでいます。1862年には欧米や清を外遊。西洋諸国の発展を目の当たりにし、このままでは日本は外国資本にやられてしまうと危機感を抱いたんだと思います。このころ薩摩藩の招へいでジョン万次郎とともに薩摩の開成所の英語教師となっています。そのような中で、西郷隆盛や小松帯刀などとも交流を持ち、日本初の株式会社の設立を構想しました。坂本龍馬よりも早かったんですね。
故郷の本間家にこの「薩州商社」への参加を求めに帰郷しましたが、戊辰戦争の直前であったため薩摩藩のスパイと疑われ幽閉。その後毒殺されたといわれています。享年47歳。庄内藩は会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中核だったんですね。
会津藩降伏後、庄内藩も降伏します。会津藩27万石に下された処置は、厳寒の陸奥斗南藩3万石に追いやられるという苛烈なものでした。対して同じ賊軍だった庄内藩は、石高を5万石削られたのみでした。
その理由は、庄内藩降伏後鶴岡城に入った西郷隆盛の寛大な処置によるものと伝わっています。庄内藩主酒井氏の西郷隆盛への感謝の念は大変なものがあったようです。その後も庄内の人々へ西郷隆盛に対する敬慕の情は伝わり、今では鶴岡市と鹿児島市は兄弟都市となっています。
私には、西郷隆盛の庄内藩に対する寛大な処置は、西郷より5歳年長の本間北陽(郡兵衛)の存在があったからではないかと思われてなりません。西郷と本間北曜は薩摩だけではなく京都・大坂でも行動を共にしています。いわば同士でもあり師でもあります。実際、「羽州荘内とくに酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と西郷隆盛が黒田清隆に言ったと伝わっているそうです。
北曜(郡兵衛)の死は1968年7月。庄内藩降伏の2カ月前のことです。あとすこし北曜が生きながらえていたら、もっと歴史に名を残す大きな人物となっていたのではないかと考えると残念でなりません。そして、日本初の株式会社が設立されていたら酒田港が東北の交易の中心になっていたかもしれません。
北曜の死は北斎の死から19年後のことですが、西洋の知識を持ち、京都・大坂・長崎・薩摩・酒田と幕末の志士のように活動した原点は、青年時代の北斎との出会いにあったのではないかと私には思われてなりません。
北斎は最晩年89歳のときに、長崎に旅立つ北曜に対し「鬼図」という絵を贈っています。また入門したてのころに手本として「獅子の図」を与えています。北曜はそれらを生涯大切にしていたようです。特に「鬼図」には北斎の死から2年後に北曜の郷里の師・池田玄斎という人物が絵の左上に狂歌を書き込んでいます。それは、「世の中は虎狼もなのみにて 衣をきたるおにぞかしこき」というもの。絵をご覧いただけないのが残念ですが、北斎の思いを解釈したものと考えるのが自然でしょう。
残念ながら、この歌の意味を正確に解釈したものはいないようですが、ある程度推測は成り立ちます。歴史の上では定説ではありませんが、北曜のその後の行動を観れば、北斎が自らの考えを北曜に伝えていたといってよいのではないかと思います。
