生い立ち
朝起きると、すぐに靴を履いて隣の家に遊びに行ってしまう。悦子は、小さい頃からそんな活発な子どもでした。
ある日のこと。母親から「人のおうちにお邪魔する時は『お邪魔します』と言ってから入るのよ」と教えられました。すると、お隣の家にあがる際、「いただきます!」と悦子の大きな声。お隣の方が笑いながら教えてくれたそうです。
悦子は家の中よりも、外で遊ぶことが大好き。目をぬすんでは外に行くため、母親も家でじっとしていられないほどでした。
祖父は自分の子ども達が全員男の子でもあり、初孫で女の子の悦子をとても可愛がりました。祖父は町内の知人の家をはじめ、勤め先だった区役所にまで悦子を連れて行き、自慢して歩きました。
1歳7か月違いで妹が、小学校2年生の夏休みには弟が誕生。二人のことをとても可愛がりました。
小学校時代
悦子はとても目立ちたがり屋でした。遠足では、必ず写真屋さんが同行して写真を撮ってくれます。目立ちたい一心で写真屋さんの後を追いかける悦子に、写真屋さんから「あなた写りすぎだから、どいてね」と苦笑いされたことも。
小学校時代まで過ごした団地は、大切な思い出の場所です。団地の中は車が入ることもほとんどなく、子どもたちが全力で遊んでも安全でした。毎日のように友達とかくれんぼや鬼ごっこ。走り回ったり、滑り台をしたり、高い塀の上でドンじゃんけんをしたり。
6年生の最後のお楽しみ会では、「青い海と少年」というお話の劇を披露。監督は、悦子です。本番までグループの中心として、小道具や大道具を作り、演技の仕方を考えました。大成功をおさめた達成感は宝物になっています。
中学校時代
上板橋第3中学校のバレーボール部は、区内でも好成績を残すチームでした。学校外の合唱団にも所属していた悦子は、部活動と合唱団の両立を目指しました。苦労もありましたが、バレーは控えのセッターとしてやり通しました。
3年生の時の文化祭(若鳩祭)ではクラスで大凧づくりに挑戦。企画から準備までみんなで協力して成し遂げました。日本橋にある「凧の博物館」 にも見学に行くなど努力した末、大空を舞う大凧を見上げた時の感動は、今も鮮明に残っています。
高校時代
ある日、バレー部で「団結」が課題になり、話し合いを重ねます。
でも、なかなか団結が見いだせない時、顧問の先生から「一人ひとり個性も考えも違うのだから、全てをそろえる必要は無い。団結に大切なのは、全員が同じゴールを目指すこと。山登りと同じで、登り始める場所や登り方は自由で良い」と教えられました。
さらに「ただし、目指すゴールが同じであれば、ゴールに近づけば近づくほど、全員が近くに集まっていき団結できるものだ」とも。
青春の一コマに学んだ思い出は、社会人生活で、また現在に至るまで大切な指標になっています。
大学時代
サークル活動は「教育学部企画」に所属。これは大学祭で、展示やアトラクションを行うことを目指し、学部生の絆を強めることを目的とする団体です。
仲間達から、誕生日を「どっきり企画」で祝ってもらったことがありました。家族も巻き込んだもので、とても驚き、感激。これをきっかけに、1年間を通して、仲間の誕生日を「どっきり企画」で祝うことに。
周りのみんなを笑顔にすることに全力を注ぎ、企画や準備に没頭しました。
教員時代
クラスの子どもたちと向き合う際に心掛けたことは、一人一人の心と心をつなげていくこと。逆に、友達の悪口を言って、子ども同士の心が離れてしまうような言動は、きちんと注意をしました。
学級には、教員に自分から話しかけてくる子もいれば、そうではない子がいます。また、そばに居るけれど言葉が出てこない子、そばにも寄って来られない子も。
子どもたちにとって、最も身近であり、味方である教員でいられるよう、子どもたちに自分から声を掛け、近寄るように意識しました。これらを積み重ね、一人一人が大切にされる温かい学級作りを目指したのです。
昭和47年12月 | 板橋区生まれ |
昭和63年3月 | 板橋区立上板橋第三中学校卒業 |
平成3年3月 | 創価高校卒業 |
平成7年3月 | 創価大学教育学部卒業 |
平成7年〜平成10年 | 北区立幼稚園教諭 |
平成10年〜平成24年 | 小学校教諭(板橋区立志村小学校・金沢小学校など) |
平成24年 | 創価大学教職大学院 |
平成25年 | 台東区教育委員会指導主事 |
平成29年 | 渋谷区立西原小学校副校長 |
平成31年 | 台東区教育委員会統括指導主事 |
令和2年10月 | 退職 |
令和2年11月 | 公明党 東京都本部女性局次長 |
令和3年7月 | 東京都議会議員選挙 初当選(1期目) |
趣味 | 旅行・読書 |
性格 | 明朗 |
尊敬する人 | 父 |