6月議会での質問要旨です。
公明党は子供貧困対策の観点から就学援助の充実を一貫して推進してきました。これまでは小学校新入学時に必要なランドセルなどの学用品の費用は支給されるものの、国の補助金交付要綱では、国庫補助の対象は小学校入学前を含まない「児童又は生徒」の保護者としていたため、その費用は入学後の支給になっていました。
今般、文部科学省は、その「要保護児童生徒援助費補助金要綱」を、平成 29 年 3 月 31 日付で改 正することにより、就学援助要保護児童のランドセルの購入等「新入学児童生徒学用品費」の単価を 従来の倍額(小学校:20,470 円→40,600 円、中学校:23,500 円→47,400 円)にするとともに、その支給 対象者に、これまでの児童、生徒から、新たに就学予定者を加えました。
質問
今回の補正予算案で教育支援費として、準要保護児童生徒援助費に係る所要額が倍増する補正案 が計上されています。要保護児童生徒の新入学用品の支給は、基本的には、生活保護制度の教育 扶助である入学準備金から、すでに入学前に支給されていますが、この準要保護児童生徒に対する 「新入学児童生徒学用品費」の対応については、今後、文科省の通知に従い、その単価の変更及び 入学前からの支給について本市において判断していくことになります。
準要保護児童生徒を対象とする新入学児童生徒学用品費の入学前からの支給に対応するための予算措置、システムの変更、要綱等改正が必要となるが各務原市教育委員会の見解は。
答弁要旨
平成 29 年 3 月 31 日付の文部科学省通知を受け、準要保護児童生徒に対し「新入学児童生徒学用品費」の入学前に支給ができるよう準備を進めます。予算については 9 月議会で補正予算を上程させる予定です。支給の申請、認定等、具体的な方法については、近隣市町村の状況も参考にしながら、市の支給要項等を改正し対応していきます。支給時期については、入学前に入学準備が出来るように、新中学 1 年生に対しては、現在、準要保護児童に認定されている方へ 1 月末に支給できるようにし、新小学 1 年生に対しては、秋に行う就学時健診等で周知し、年内期限までに申請された方へは、認定後、1 月末に支給できるように進めて参ります。
質問
小さな子供さんのいる家庭では、一般的な防災対策だけでは十分 に子供を守ることができないと思います。 住宅形態、家族構成、ご自身の体力など、防災はその家庭にあった独 自の備えを講じる必要があります。大切なのは子供の目線になることで、 大人には低い位置と思っていても棚の上のものが子供にとっては頭を直 撃する位置にあることも忘れてはいけません。 小さな子供さんがいる場合、体の守り方、避難方法、持ち出し品などを しっかり考えておく必要があります。またローリングストック(循環備蓄)が必 要です。 災害に最も弱い赤ちゃんや乳幼児を持つお母さんの防災対策の心得 について、市はどのようにして啓発活動をするのか。
答弁要旨
保護者の方に意識を高めていただくため、まずは年齢に応じ た備蓄品、持ち出し品のチェックリストを作成し、ホームページへの掲載 や乳幼児健診等での配布を行っていきます。また、パンフレットやこのチ ェックリストを活用した講座の開催等について検討します。
~公明党岐阜第三総支部 各務原支部
~歴史を楽しむ~ 八幡堀とその歴史について
歴史的経緯 八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。
八幡堀の汚染 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代もなると、八幡堀は市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。当時は高度成長時代であり、時代の波に近江八幡市としても乗り遅れることのないようにと、区画整理や工場誘致等の都市基盤整備に躍起になっていました。加えて、琵琶湖総合開発による琵琶湖の水位低下や生活排水の質的変化により、その荒廃は進む一方でした。昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8メートル、総量5万立方メートル、蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添え駐車場や公園等への改修要望を市に陳情しました。
市民運動の高まり このような状況の中、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。これは、「観光目的ではなく、今現在、我々が存在するのも八幡堀があったからであり、まちの歴史が詰まった堀を守らなければならない」と言う思いからでした。しかし、埋め立ての予算は既に国によって計上されており、市民も1日も早い改修を望んでいるような状況の中では、保存運動はいわば孤立状態を招きました。このような中で、青年会議所は昭和50年に「死に甲斐のあるまち」をまちづくりのコンセプトにした新たな運動を展開します。これは、働き甲斐のある場所や生き甲斐のある場所は数カ所あっても、どんな人間でも死ぬ場所はひとつしかなく、人が死を迎えるに当たりこの町で生涯を終えることに後悔しないような町と言う意味です。青年会議所は県土木事務所等との折衝を続ける中で、毎週日曜日に会員自らが八幡堀へ入り自主清掃を始めます。当初は、清掃作業を横目にヤジを飛ばす人やゴミを捨てていく人も存在する中、めげることなく活動を続ける彼らに、やがて市民の目も変化してきました。パンや牛乳を差し入れてくれる人、清掃作業を手伝う老人会の人、自社のダンプやユンボを貸出してくれる建設業者等々で、しだいに堀端は賑わうようになりました。また、常々意見対立を繰り返してきた行政職員も市民の1人として参加する人が現れるなど、この活動はいつの日か近江八幡市の誇りを取り戻す事業として共感の輪が広がり始めました。昭和50年9月になり、ついに滋賀県は進みかけていた改修工事を中止、国にその予算を返上することになりました。このきれいになったお堀が現在貴重な観光資源になり、連日多くの観光客でにぎわっています。





















