バックナンバー 2016年 11月

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  ~公明党岐阜第三総支部 各務原支部

~歴史を楽しむ~ 八幡堀とその歴史について

歴史的経緯 八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。

八幡堀の汚染 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代もなると、八幡堀は市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。当時は高度成長時代であり、時代の波に近江八幡市としても乗り遅れることのないようにと、区画整理や工場誘致等の都市基盤整備に躍起になっていました。加えて、琵琶湖総合開発による琵琶湖の水位低下や生活排水の質的変化により、その荒廃は進む一方でした。昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8メートル、総量5万立方メートル、蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添え駐車場や公園等への改修要望を市に陳情しました。

市民運動の高まり このような状況の中、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。これは、「観光目的ではなく、今現在、我々が存在するのも八幡堀があったからであり、まちの歴史が詰まった堀を守らなければならない」と言う思いからでした。しかし、埋め立ての予算は既に国によって計上されており、市民も1日も早い改修を望んでいるような状況の中では、保存運動はいわば孤立状態を招きました。このような中で、青年会議所は昭和50年に「死に甲斐のあるまち」をまちづくりのコンセプトにした新たな運動を展開します。これは、働き甲斐のある場所や生き甲斐のある場所は数カ所あっても、どんな人間でも死ぬ場所はひとつしかなく、人が死を迎えるに当たりこの町で生涯を終えることに後悔しないような町と言う意味です。青年会議所は県土木事務所等との折衝を続ける中で、毎週日曜日に会員自らが八幡堀へ入り自主清掃を始めます。当初は、清掃作業を横目にヤジを飛ばす人やゴミを捨てていく人も存在する中、めげることなく活動を続ける彼らに、やがて市民の目も変化してきました。パンや牛乳を差し入れてくれる人、清掃作業を手伝う老人会の人、自社のダンプやユンボを貸出してくれる建設業者等々で、しだいに堀端は賑わうようになりました。また、常々意見対立を繰り返してきた行政職員も市民の1人として参加する人が現れるなど、この活動はいつの日か近江八幡市の誇りを取り戻す事業として共感の輪が広がり始めました。昭和50年9月になり、ついに滋賀県は進みかけていた改修工事を中止、国にその予算を返上することになりました。このきれいになったお堀が現在貴重な観光資源になり、連日多くの観光客でにぎわっています。

iPhone-2016.11.02-09.24.06.422本日、各務原市 浅野健司市長に対して市議会公明党(黒田議員、五十川議員、横山)として29年度政策・予算要望書を提出させていただきました。全93項目で[希望と安定]住んで良かったとといえる街づくりのために各務原市民の声を届けさせて頂きました.

 

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各務原市 横山富士雄
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