ハンセン病シンポジウム 2月9日

ハンセン病問題に関するシンポジウムが鹿児島市民文化ホールで行われました。
オープニングで鹿児島県立松陽高校音楽部による合唱があり、「花は咲く」など3曲が披露されました。とても声のきれいな合唱で、来られた方々も拍手を一生懸命されていました。
シンポジウムでは、司会は石塚勝郎鹿児島県教育カウンセラー協会代表、パネリストに池間哲郎一般社団法人アジア支援機構代表理事、上野正子国立療養所星塚敬愛園在園の語り部、前野芽鹿児島国際大学福祉社会学部社会福祉科2年の方々で行われました。
まずはじめに、パネリストである前田芽さんが、大学でハンセン病の入所者の隔離されながら差別に苦しむ様子を聞いて驚いた。いじめが社会問題になっているが、今後若い世代が差別問題に関心を持って理解することが必要と感じた。
上野さんは、昭和15年13歳で父親に連れられて入所。翌日は、父はいなくなり捨てられたと親を恨んだ。名前も変えられた。その後、19歳で戦争が起き家族がどうなったかわからない状態だった。平成8年に「らい予防法」が廃止されました。そして国は入所者たちにお詫びし、新たな補償を行う法律を作り、入所者の名誉回復、社会復帰支援及びハンセン病問題の啓発活動に取り組みました。しかし、その後も宿泊拒否事件などが起き社会復帰者やその家族に対する偏見や差別には根強いものがあった。しかし、親を恨み、人を恨み、世の中を恨んでいたが、同級生がなくなることを感じると自分がハンセン病を患ったのでこの病気を皆に伝える使命を感じていると。
池間さんは、アジアの貧困8各国の支援をし続けている。インドネシアの女性を通してハンセン病で両手の指がなく横たわっている女性を見て、自分の心の中で逃げようという心と助けなければという心の葛藤があった。しかし、51対49で助けようという心が勝ち、彼女に接した。しかし、彼女は死にたい殺してくれと叫んだ。しかし、その後も食事や薬の支援をすることによって元気になり、次の会う機会ではお化粧をしてめかしていた。資して結婚をするまでになった。幸せは8ケ月で終わり旦那がなくなる。彼女は声を失い施設に戻るが声は出ないまま。その後、ハンセン病になる前の子供が施設に訪れ現在は楽しく生活をしている。ネパールでは、男尊女卑が強く女性は、労働者であり学習をさせない。そして、家族のために外国で娼婦として労働をさせられ、エイズになってからしか帰れない。帰っても集落に入れず、路上で息を引き取る女性が多い。その女性を助けるためにビルを買い取りそこで生活させたが、お金がないために死亡していく。池間さん達の努力で食事ができたりして漸く安静な顔になった。今後も、アジアの貧困の国々にはたくさんの助けを求めている人がいるので、まず知ることのボランティアを続けていきたい。自分の命が大事なら人の命を守ることが重要であると。
最後に、石塚さんはハンセン病を知ること、ハンセン病患者や家族への偏見をなくすことなどをまとめられました。
パネラの話に私をはじめハンカチを顔に当てる人が多くいました。ハンセン病への偏見や人権差別への大いに勉強になったシンポジウムでした。
