石田のりとし物語
幼少時代
昭和26年9月1日、父石田南海男と母八重子に間に四男三女の三男として高知市旭町で誕生。生家は小さな路地に面した6畳2間の借間であった。
父は昔気質の実直な人柄で、母は優しく、信仰心の厚い人であった。父親は鍛冶屋職人であったが、不況のあおりを受け技術を生かす職に恵まれず、やむなく失業対策事業に従事していた。さらに、日曜市の後かたづけを手伝ったりして生活費の足しにし、母は洋裁の内職をしながら家計を助けるという生活であった。
生活は質素で、その日に食べる米を毎日買いに行くという生活であった。そして、母の仕立てた服を届けに行くのが彼の役目でであり、母に手を引かれながら遠くへ届けに行くときが一番うれしかった。それが母に甘えられる唯一のときであった。
少年時代
昭和33年4月高知市立旭小学校入学
健康に恵まれた元気な子どもとして成長する。よく遊びよく学ぶ少年であった。成績は大変に優秀で、特に算数は得意で抜群の成績であった。
ある時、担任の先生に呼ばれ同級生の勉強を見てくれないかと頼まれる。その親からの強い勧めもあって引き受ける。人の役に立つことの喜びを知る。 少年時代
また、図書館に行くことがとても好きであった。広い部屋にたくさんの本が並んでいるのを見ると、何かしらうれしく感じた。コナン・ドイルなどの探偵小説が面白く、かたっぱしから読みあさった。そして6年間で図書館の本は、ほとんど読んでしまった。
6年生の時、旭小学校子供会会長に選ばれる。その年の高知市内子供会会長会での発言が、テレビで放映され話題となった。
中学時代
昭和39年4月高知市立西部中学校入学
入学時に行なわれる、上級生と新入生との対面式では、新入生代表として、挨拶をする。この次期、特にバスケットボールに夢中になる。
初めて触れた英語に強い興味を持ち、勉強に励む。数学と同様、英語も得意科目となり、成績もトップクラスであった。
この頃の夢は、科学者になることであった。また、バスケットを通して頑強な身体を作ることが出来た。
高校時代
昭和42年4月高知県立追手前高等学校入学
高校時代「学問とは何か」「人生とは何か」「自身の果たすべき使命とは何か」について真面目に、そして真剣に考えるようになった。人生における様々な矛盾について、友と激論を交わしたこともしばしばあった。荒削りであったが、社会正義への情熱が燃え始めた。
成績は、やはり優秀でトップクラス。3年間の実力テストは11回中4回トップであった。成績優秀のため、奨学金の貸与を受ける。クラブ活動はバスケットボールを続ける。受験勉強で仲間が一人二人とやめていくなか3年生の最後まで勉強の手を抜くことなくやり切る。
大学時代
昭和45年4月、国立電気通信大学に入学。この年の8月父逝去。自立心に燃え、前途多難を覚悟した大学時代の始まりとなった。
昭和46年人生の師匠である池田大作氏の創立された創価大学開校。中学時代から開校したら行こうと決めていたので、直ちに受験し、念願の創価大学文学部社会学科へ入学する。「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との創立の精神を心に刻み、勉学に専念。教養を身につけるため古今東西の歴史、文学、思想、哲学等の書物をひもとき、熟読する。
構内に立つブロンズ像に碑に刻まれた「英知を磨くは何のため、君よそれを忘るるな」の言葉に感銘する。学問は自己の栄誉栄達のためでなく、民衆のために学び、民衆のために役立てることの大切さを示唆した言葉である。彼は学ぶことの意味を教わることが出来た。
また、彼は学費や生活費を稼ぐため積極的にアルバイトをした。家庭教師、自動車解体、バキュームカーの助手、線路工夫、土木工事、測量助手等さまざまの仕事であった。こうしたアルバイトを通じ、それぞれの職種の人々から多くのことを学ぶことができた。
大学時代 彼の人柄は、アルバイト先の大人たちに信頼され、かわいがられた。彼は学問と現実のバランスを決して崩さなかった。それは学問の中に現実があるのではなく、現実の中に学問があると理解していたからである。
大学のゼミでは、マルクスの「経済学・哲学草稿」を学習。初期マルクスにおける人間の観察、ヒューマニズムのあり方について、思索を重ねる。卒業論文は「疎外論-その一考察」と題して現代社会に存在する疎外の問題を取り上げて論及している。
大学院時代
昭和51年、創価大学大学院修士課程に進学。宗教社会学を専攻する。社会の形成、発展に宗教がどのように関わっていたのか、特に、マックス・ウェーバーを中心に研究をする。
「マックス・ウェーバーの宗教社会学に於ける『資本主義の精神と宗教論理』」と題して修士論文を発表し、修士号を取得。
都庁時代
昭和54年、東京職員になる。教育長所管の都立府中養護学校へ勤務。福祉の最前線での勤務を喜ぶ現場を知らなければ福祉を論ずる資格はない、との気概で仕事に取り組む。ここでの6年間は、現場の実態と行政の机上論が、いかにかけ離れているかを痛切に知らされた期間であった。
現在、障害を持つ子ども達が生きることに喜びを持てる環境は、社会にも家庭にもまだ十分に整ってはいない。ここではリハビリで機能を回復しつつある子どもも一定期間が経過すれば機能回復も不十分なまま、卒業しなければならない。家に帰ることになれば回復の機会も少なくなる。卒業を迎えた子どもや親たちの希望や不安を受け入れてくれるほど行政は甘くない。だから世間での卒業という喜びは、ここには感じられない。卒業式が来るたびに、そのことを感じていた。
障害を持つ人々の一生に、行政はどう関わっていくべきなのか。日本の福祉の脆弱さをはっきりと知ることが出来た。また、日本の福祉には、その根底に理念が欠如していることも、その遅れの重要な要因である。いかなる理念が必要なのかを知りえてこそ、欧米の福祉を超えうる福祉政策が実現するのであるとの思いを深くしていった。彼の福祉理論は、現実の中で、人間対人間の打ち合いの中で磨かれていった。
昭和60年、清掃局に移動。環境行政最前線とも言うべき職場である。生活環境向上と便利さの影に隠れたゴミ公害の問題に直面。燃えないゴミや有毒ガスを出すゴミなどの増加による環境汚染。ゴミ処理の限界と環境行政の遅れを痛感する。そして、環境問題全般にわたる問題意識を持つと同時に、環境汚染や環境破壊の問題の根の深さを知る。
こうして都庁時代は、「人間の生存の権利とは」また「人間にとって最適の環境とは」、福祉の根幹とも言うべき問題を学ぶことが出来た。