第25回 あいち境界シンポジウムに参加して
第1部基調講演 概要
テーマ:日本人の忘れもの ― 地籍とインフラ ―
講師:大石久和氏(国土総合研究所 所長)
1.問題提起 ―「国の借金」論の誤解と積極財政の必要性
大石氏はまず、日本で広く流布されている「国の借金1,000兆円超」という表現の誤りを指摘した。
国債は政府の債務である一方、国民の資産でもある。
日本の個人金融資産は2,000兆円超、対外純資産も約400兆円と世界最大規模。
にもかかわらず、「借金」強調報道により国民が萎縮し、必要な投資が抑制されている。
同氏は、財政再建一辺倒ではなく、成長のための「責任ある積極財政」への転換が不可欠であると主張。
国の役割は、国民が安全に暮らし、生産活動を活発に行える環境を整えることにあると強調した。
2.インフラ投資を削減した日本の異常性
1996年以降の約20年間で:
英国:インフラ投資 約5倍
米国・ドイツ・フランス:2倍前後増加
日本:約40%減少
特に地方の公共事業費は半減し、地域の建設産業基盤も弱体化。
その結果:
高速道路整備の遅れ(暫定2車線区間の放置)
港湾コンテナ取扱量の国際順位低下(神戸港は世界5位→50位圏外)
空港競争力の低下(仁川空港との差拡大)
物流効率・CO₂排出・交通安全面での劣位
他国が国家戦略としてインフラ投資を拡大する中、日本のみが縮小してきた現実を「世界の潮流からの逸脱」と指摘した。
3.国力低下のデータ
日本の世界GDPシェア
1995年:約17.5%
2025年:約3.6%(推計)
世帯平均所得:ピーク時より減少
可処分所得比率:70% → 約52%へ低下
社会保障負担増と消費税増税
一方で法人税・高所得層減税は大規模実施
政策の帰結として、
「日本の貧困化は政策によるもの」
との海外学者の評価も紹介された。
4.企業行動の変化と投資停滞
近年の大企業は:
設備投資よりも自社株買い・配当増加を優先
内部留保の積み上げ
国内投資の停滞
その結果、経済の循環が生まれず、成長力が低下していると指摘。
5.世界のリーダーは「インフラ重視」
講演では各国首脳の事例を紹介:
バイデン大統領:超大型インフラ投資法(超党派)
英国保守党政権:大規模交通投資
ドイツ:特別基金による長期投資
フランス・イタリアも国家主導投資
日本だけが国家ビジョンとしてインフラを語らなくなっていることを問題視した。
6.土木・インフラの再定義
大石氏は「土木」の定義を次のように再定義すべきと提案:
あらゆる産業を牽引し、社会と人間生活の基盤となるインフラをつくり、維持する活動
水道・道路・港湾・空港・防災施設など、
私たちの生活そのものが「土木を消費することで成り立っている」と強調。
医師・中村哲氏のアフガニスタンでの灌漑事業を例に、
「命を守る基盤こそインフラ」であると語った。
7.憲法前文との関係
憲法前文にある
「主権は国民に存する」「その福利は国民が享受する」
という理念から見て、
現在の政策は国民の幸福を十分に実現しているのかと問題提起。
8.地籍とインフラの意味
講演テーマにある「地籍」とは、
土地の所在・境界・所有関係の明確化
国土管理の基礎情報
災害復旧やインフラ整備の前提
地籍整備の遅れは、国土管理能力の低下を意味する。
国土を正確に把握し、インフラを整備し、次世代へ引き継ぐことが国家の責務である
――これが講演全体を貫くメッセージであった。
総括
大石氏の主張は一貫している。
「国の借金」論に縛られた縮小均衡から脱却
国民の資産と国力を活かした積極投資
インフラは消費ではなく未来への投資
世界標準に立ち返る国家ビジョンの再構築
地籍整備を含む国土管理の再強化
すなわち、
日本人が忘れてしまった「国土をつくり、守り、次世代へ渡す」という国家の基本機能を取り戻すべきだ
という強い問題提起であった。
テーマ:境界の見える化が街を動かす
〜所有者不明土地・空き家・狭あい道路をつなぐ視点〜
宮本万理子氏(SOMPOインスティチュート・プラス 主任研究員)
① 問題の核心:「境界」が見えないことが都市課題を深刻化させている
所有者不明土地、空き家、狭あい道路は別々の問題ではなく、相互に連動している
共通の根本課題は「土地の境界・所有関係の不明確さ」
境界が確定しないことで、
解体が進まない
道路拡幅が進まない
災害復旧が遅れる
再開発に時間と費用がかかる
➡ 境界の“見える化”がまちの再生を動かす鍵
② 所有者不明土地の現状と拡大予測
全国で約410万ha(九州規模)
2040年には約720万ha(北海道規模)に拡大予測
原因:
地籍調査の遅れ(全国平均約53%)
相続登記の未実施
都市部での調査停滞
特に都市部では地籍調査の進捗が低く、
インフラ整備の障害になっている。
③ 空き家と狭あい道路の深刻な連鎖
空き家率は過去最高水準(13.8%)
特に「その他空き家」が増加
4m未満の狭あい道路に接する住宅が多く、
防災上の危険(消防車進入困難)
日常生活の支障(除雪・ごみ収集・すれ違い困難)
老朽住宅とセットでリスク増幅
➡ 空き家問題と狭あい道路問題はセットで存在している。
④ 災害時に顕在化する境界不明のリスク
能登半島地震などの事例から:
境界未確定により解体・復旧が遅延
道路復旧の妨げ
公共性の高いインフラ整備が進まない
➡ 防災の観点からも境界確定は喫緊課題
⑤ 地籍調査のボトルネック
地籍調査は以下の流れで進むが、
説明会
現地立会い
測量
閲覧・確認
最大の課題は「所有者の立会い・同意」
高齢化
相続未整理
連絡不能
マンション管理不全
➡ 協力が得られず、事業が長期化(六本木ヒルズでも4年)
⑥ 制度改革の動きと限界
国土調査法改正
相続登記義務化
所有者不明土地法整備
セットバック支援条例
空き家対策・ランドバンク事例
しかし、
予算規模は限定的
現地立会いの仕組みは依然課題
公共性確保の視点がまだ弱い
➡ 制度は進んだが、実効性には課題
⑦ 提言:公共性を担保する「境界の見える化」
宮本氏の結論は明確。
境界確定は私的問題ではなく「公共の福祉」の基盤
道路・防災・都市再生の前提条件
狭あい道路解消の鍵
空き家対策の出発点
境界を見える化することが、
都市のインフラ整備と安全性を前進させる。
総括
宮本氏の講演は、
「所有者不明土地」「空き家」「狭あい道路」という個別課題を
“境界”という一本の軸で統合的に捉え直した提起
であった。
第2部 パネルディスカッション概要
テーマ:「土地は誰のものか」
コーディネーター:神谷文彦(愛知土地家屋調査士会)
パネラー:大石久和/宮本万理子/野村裕(のぞみ総合法律事務所)
① 問題提起:「土地は私権か、公共財か」
本討論の軸は、
土地を“個人の財産”としてのみ捉えるのか、
それとも“公共の基盤”として考えるのか という問い。
神谷氏は、令和2年改正の土地基本法を踏まえ、
土地は公共の福祉を優先すべき資源である
所有者には「適正管理」と「境界明確化」の責務がある
という大きな転換点を提示した。
② 災害現場が示した「私権と公共性」の現実(野村氏)
東日本大震災・石巻市で復興実務に携わった野村氏は、
法制度と現実のギャップを語った。
● 復興事業の現場で起きたこと
土地区画整理や高台移転には全地権者の同意が必要
相続未整理・未登記・共有者多数の土地が障害に
代表者承諾など「リスクを抱えながら前進」せざるを得なかった
➡ 災害時には、個人の権利より公共性が優先される場面が現実に存在
しかし同時に、
事前に地籍調査が進んでいた地域は復興が早かった
権利関係が整理されていない地域は大幅に遅れた
という教訓も示された。
「平時の管理が、非常時の命運を分ける」
③ 境界・登記・共有が復興を左右する(宮本氏)
宮本氏は能登半島地震と東日本大震災の比較データを提示。
● 解体遅延の要因
未登記物件の多さ
数世代にわたる相続未処理
共有者多数(場合によっては数十人)
所有者が判明しても、
共有者全員の同意取得に膨大な時間
合意形成の困難さ
が復興を遅らせる。
➡ 所有者不明土地問題は、
防災・減災の重大課題でもある
④ 土地基本法改正の意味(野村氏)
改正の最大のポイントは、
「所有者の責務」が明文化されたこと
登記・権利関係の明確化に努める義務
境界明確化への努力義務
公共の福祉を優先する理念の明示
ただし、
基本法だけでは実効性は限定的
民法・不動産登記法改正とセットで初めて機能
法的インフラは整備されたが、運用はこれから
⑤ 現場のリアル:なぜ境界立会いに反発があるのか
神谷氏が問題提起。
狭あい道路拡幅や公共事業の現場では、
「なぜ他人のために立ち会うのか」
「なぜ土地を提供しなければならないのか」
という声が少なくない。
ここにあるのは、
個人主義的権利意識
地域共同体意識の希薄化
大石氏は、日本人が歴史的に「公共との関係性」を十分に内面化してこなかった構造的課題を指摘。
⑥ 境界明確化の効果と限界
● 効果
インフラ整備の前提
災害復旧の迅速化
所有者不明土地の抑制
狭あい道路解消の出発点
● 限界
境界確定後の継続管理が困難
遠隔地相続・都市集中による管理不全
権利者探索自体が最大のボトルネック
野村氏は、
「制度は整ったが、入口の“権利者調査”が最も困難」
と強調。
⑦ 核心メッセージ
本討論で浮かび上がったのは、
土地は
個人の財産であると同時に
社会全体の基盤である
という二面性。
そして、
境界の明確化は、
私権制限ではなく、
公共と私権の調整を可能にする土台である
という共通認識であった。
■ 総括
このパネルディスカッションは、
「土地は誰のものか」という問いを通じて、
私権と公共性
平時と非常時
権利と責務
境界と復興
を立体的に浮き彫りにした。
土地問題は法制度の問題であると同時に、
社会の価値観の問題でもある。


