先進地調査活動
会派代表質問
おっはよーございます!
今日は、東根市議会会派代表質問です。
私は5番目ですので、少し流動的で、午後2〜3時のスタートです。
インターネットライブ中継がありますので、どうぞご覧ください。
http://www.higashine-city.stream.jfit.co.jp
質問事項は、
1.子育て環境の充実について
1)東根市子ども・子育て会議の経過
2)『東根市子ども・子育て支援事業計画』の概要について
3)届出保育施設等(認可外保育施設)について
2.高齢者福祉の充実について
1)地域密着型介護サービスの進捗について
2)緊急通報システムの設置状況について
3.障がい者支援について
1)特別支援学校卒業生などの就労支援、生活支援について
2)車いすマラソンなど、障がい者スポーツについて
4.IJU促進と定住促進、市域の均衡ある発展について
1)I、J、Uターン者の積極的な受け入れ策について
2)市内で家業を継ぐ場合の優遇策について
3)農地転用許可の地方への権限移譲後の具体的な活用策について
5.農産物の海外販路拡大について
1)民間活力の利用促進について
6.社会体育施設整備について
1)新野球場、大森緑地公園野球場整備について
2)市民体育館、第二体育館のバリアフリー化について
です。
おだしま雪中フェスティバル!
公明党の山口那津男代表は、地域経済における商店街の重要性を指摘し、「『いきいき商店街振興プラン』を提案したい」と強調。(1)商店街に関する法整備の推進(2)“医職住”を備えたコンパクトでにぎわいあるまちづくり(3)若者や女性の起業・創業支援(4)空き店舗の有効活用(5)大型店舗と地元商店の共存共栄に向けた環境整備―などの施策を進める方針を表明し、「公明党が先頭に立って取り組んでいく」と主張した。
◎商店街活性化に向けた法整備を推進
地域コミュニティーの再生や地域経済の振興へ、関係法制を抜本的に見直し、ソフト・ハードの両面にわたる商店街と中小企業への総合的な支援策を拡充します。
○コンパクトでにぎわいあふれるまちづくり
商店街が行う若手人材の育成や新規出店、省エネ・防犯対策を支援。また、専門家の派遣などで、まちの魅力を掘り起こします。
○若者や女性による起業・創業を支援
子育てや介護といった地域需要に応えるビジネスを生み出すため、人材育成、ノウハウ提供など、商店街の起業・創業を促します。
○空き店舗の有効活用
空き店舗を活用した地域物産展の開催や子育て支援施設の設置などで、商店街を住民が憩える場所にします。
○すべての店舗が協力して行うまちづくりへ
すべての店舗が共同・協力したまちづくりへ、各種条例の制定などで、スーパー、百貨店、量販店などの地域参加を推進します。
○買い物弱者対策
高齢化の進展による買い物弱者に対して、商店街振興組合が行う事業への支援措置を積極的に行います。
公明党が「いきいき商店街振興プラン」を発表!
復興地に対して政治の責任を果たせ!
9日放送のNHKスペシャルで、復興予算が被災地と関係ない事業に流用されていると放映されたことについて、お問い合わせをいただいております。
公明党東日本大震災復興対策本部は13日、関係省庁から事実関係の説明を求め、事実内容の厳正な精査を強く迫っています。
https://www.komei.or.jp/news/detail/20120914_9110
子どもを、人を大切にするということ
私のフェイスブック「友達」友岡雅弥さんのウォールに紹介されているお話を、ご本人の了解を得て、そのまま転載させていただきます。長文ですが是非読んでください。
子どもを、人を大切にするということはこういうこと。
―――と足下劣前大阪府知事現大阪市長にはいいたい。
お世話になった、釜ヶ崎のわかくさ保育園の園長さん、小掠先生の亡くなる直前の最後の講演は、前にも一度流しましたが、ある方が、たまたま、今、ご自身のウォールに流されてて、
すごく大事なことなので、僕も流しときます。
ほんとに、小掠先生は素晴らしい人でした。
「『また、明日』はない。例えば、虐待されている子ども、そして母が路上にホームレス状態になってる。見つけたときに、健康状態が悪いのならば、今すぐに、きちんと対応してくれる医院に同行し、今日から住めるドヤを探し、明日、朝から保育園に通えるようにし、明日、朝から仕事を探せるように同行する」
―――これをすべてワンストップでされていました。
小掠先生が一人で始めたことが、いつか釜ヶ崎全体におよび、それが近隣の山王、花園に及び、そして津守に及び。今では、西成子ども(見守り)ネットワークという名前となってます。
小掠先生は、昨年亡くなりましたが、跡を継ぐ人たちはみな、自分たちが、とりあえず既存の枠組みを継ぎはぎしながら、やってきたこの20年、30年の苦労が、すべて、ムダと決めつけられ、バッシングされ、市民もそれに乗り―――という行く先は見えてる、とみな恐れ、またあきれています。
長いですが、貴重な資料と思いますので。
「子どもがいなくなるまち?」 平成22年11月11日
講師 社会福祉法人 石井記念愛染園 理事
わかくさ保育園 園長
あおぞら保育 代表
今池こどもの家 館長 小掠 昭
司会
ただいまから、NPOヘルスサポート大阪主催「大阪ホームレス健康問題研究会」を開催いたします。本日は、社会福祉法人石井記念愛染園の理事であり、またわかくさ保育園の園長、あおぞら保育の代表、今池子どもの家の館長でいらっしゃいます小掠昭先生にお話を賜ります。小掠昭先生は子どもの問題を単に子どもの問題と捉えず、家庭、保護者、地域の問題と、広い視野に向け、1施設だけではできない活動を仲間に呼びかけ、ネットワークを構築し、子どもの最善の利益を追求し、虐待防止のまちづくりはもとより、子育てのしやすいまちづくりを目指し、活動されている石井記念愛染園理事でもあります。
なお、本事業は独立行政法人福祉医療機構 平成22年度社会福祉振興助成事業の一環として行います。小掠先生どうぞよろしくお願いいたします。
はじめに
小掠と申します。よろしくお願いします。HEALTH SUPPORT OSAKA の皆様方には、私も仕事上お世話になっていまして、ちょうどわかくさ保育園のとなりが大阪市立西成市民館と申しまして、そこでいろんな相談事業、いろんな相談が持ち込まれます。困った時にはHEALTH SUPPORT OSAKAの皆さんにお手伝いをしていただいております。ありがとうございます。
今日のテーマは「子どもがいなくなるまち?」です。皆さんの最初の御案内ではこの?マークがなかったと思いますが・・・。私、レジュメを作っていて、やはりクエスチョンマークを付けとあかんと、ふと思い立って?マークを付けたのをお詫び申しあげます。そのへんの理由はまたお話の中で出 てくると思います。今日はできるだけいろんなケースをお話して、特に西成の、釜ヶ崎の子ども達の 問題をご一緒に考えていただけたらなと思います。時間の許す限り、レジュメの1番から13番まで まいりますが、途中で飛ばしたり順番が入れ替わったり、新しいのが入ったりします。皆さんはこれ をあまり見ないでください。あとで「あっ、こんな話があったかな」という時に思い出す意味で、見 ていただけたらと思います。資料のほうもあとでご質問の時間を取っていただけるそうですので、そ の時にこのピンク色の資料が使えると思います。それまでは、お話を聴いていただけたらと思います。
ある障がいを持つ子どもさん一家の話
もう10年ぐらい前の2000年頃です。お父さんが日雇いの方です。だいたい釜の町のパターンとし ては、お父さんが日雇い、お母さんがパートという家庭がたくさんあります。大半と言って良いぐら いです。この家庭、お母さんは家にいましたが、子どもが3人います。お父さんが60歳近くて、仕事がない。10年前ぐらいからぼちぼち不景気になってきました。仕事がないということは失業と一緒です。そんなに蓄えがあるわけではなし、家賃はどんどん滞納していきます。 私達、保育園の立場として家庭訪問をして、管理人さんがいてはりますね。その管理人さんとよく お話をします。仲良くなって。そして、私達には見えにくいお家の様子なんかをそっと教えてもらっ たり、そこには個人情報等も。それよりもしんどい家庭を皆で見守るという、そういうことで仲良く なりました。そうしたら、管理人さんの中には「先生、この家そろそろ危ないで。半年分溜まっているで。5万円として30万。30万にいわゆる光熱費とか、月に8千円で、何やかんやで40万、溜まっているで。」という話を聞くことがあります。 この家もそうでした。私達はどうしようと。もしロックアウトされたら行くあてがないのはわかっています。誰も親戚というか身内というのはおりません。それで、家庭訪問の回数が増えるわけです よね。何か心配で覗きに行くわけです。ある日何か胸騒ぎがして、家庭訪問をしました。そうしたら、 家に着くまでの途中で親子5人がこっちへ向かって歩いてきはったんですよ。手にいっぱい紙袋を提 げています。雨がポツポツ降ってきた日です。傘は1本です。実は2番目の子が障がい児で、車いす です。車いすに1人乗って、そのそばに兄弟が寄り添って、前後にお父さんとお母さん。お母さんと お父さんは紙袋をいっぱい持っています。見ただけで「ああ、ロックアウトだ。」と感じます。
そばに行って「どうしたん?出されたん?」「うん」と。私達、保育園では「そういうことが起こ るかわからない、そういうことが起こったらどうしよう。」と事前に相談をしていました。私が決めて「こういう時はこうしよう」と言うのは簡単です。できるだけ皆で相談するようにしています。
その時、1人の保育士がこう言いました。「行くところがなかったら、しばらくの間保育園に泊ま ってもらえませんか?」という提案をしてくれました。実は、私はその提案を待っていたわけです。 「そやね、行くところがなかったらしょうがない、まさか親子5人でホームレス生活なんてできるは ずがない、障がい児を抱えてできるはずがない、だから何か考えよう」と。
保育室以外で図書室というのがあります。保育園では絵本の部屋と読んでいます。そこは、応接室 でもあります。いわゆる日常的には使わない、ソファとテーブルがあります。それを片付けたら8畳 ぐらいの部屋になります。私が発見して、そして親子の様子を聞いていて、すぐその場で「今から保 育園に親子5人が向かうから、準備をしてほしい」と電話しました。
電話を聞いた保育士たちはすぐソファを除けて、広い部屋をつくりました。そして部屋に案内して、 私は当然「どこか行くあてはあるの?」と聞いたわけです。そしたら「いいえ、どこどこに友だちが おるから、1回そこへ行ってみようと思います」「その友だちは良いよと言ってんの?」「いいえ」と。 考え方によっては非常に呑気なんですけどね。「じゃあ、行くところないねんね、そこで断られたら どうすんの?」「さあ?」「じゃあ、とりあえず保育園に来るか、保育園では泊まるところあるし」と 提案しました。両親は「じゃあ、お願いします」ということで来たわけですね。
それから3日間、3泊4日でした。私は役所と掛けあうために、次の日に生活保護の担当者に会い に行きました。そして、子ども達は、上の子は中学生、真ん中の子が保育園、一番下の子はまだ乳児 で、お母さんが子育て。そういう家族構成です。保育園から学校へお姉ちゃんは通いました。真ん中 の子はもちろん保育園ですが、3月でした。卒園式が間近に迫っていました。間近というのは2日後 でした。私達は特にそれが気になって。このままロックアウトを受けて友だちの家へ行くか、どこへ 行くか。全くそれで途切れてしまうんではないか。
そうすると、「せっかく皆でつくってきたバラ組という年長児のクラスの仲間が、1人でも欠けた ままで卒園式を迎えるなんてことは考えられない。」と職員たちは言います。だから皆必死になって、何とか保育園で留めようという思いが強かったですね。その時、生活保護の方で事情を察して「お父さん、お母さんの健康診断を1回、しましょう」ということになりました。体にどこか悪いところが あったら生活保護の受給の資格が得られるということですね。私ところの法人の愛染橋病院は無料で 検査をさせてもらえると。そうしたら、こういうのを不幸中の幸いというんですよね。お父さんの血圧が結構高かったんです。
その理由でもって生活保護です。私達は、もしかしたら子どもが施設へ送られるんではないか。ま た母子だけ母子寮でお父さんと離れ離れになるんではないか。それを何とか防がなきゃいけない、何 とか5人の生活を守らなければいけないということで、いろんなケースが起こってきますが、可能な 限り地域で親子を守ろうと。それがわれわれネットワークの関係者の同じ思いです。最終的には3泊 4日でアパートに移ることができました。
その子は車いすで、無事保育園を卒園して入学式を迎えました。入学式の時、私も毎年招かれて行 くんですけれども。その時にびっくりしたのは、学校の方々にスロープができているではないですか。 板張のスロープ。これは明らかに手作りです。私は教頭先生に言いました「教育委員会、なかなかや りますね。」と。すると「いえ、これはうちの職員が皆でつくったんですよ。」となり、感動しました。
Yちゃんというんですけれども、「Yちゃんが保育園から小学校へ入学するというのを前から聞い ていましたから、車いすで出入りが自由にできるように」と。私が見ただけでも、3つ、4つもスロ ープができていました。わずか1週間ほどの間にそうして準備を整えてくれました。私達は、機関と 連携を取る中で、皆で1つの家庭、1人の子どもを守っていこう。私のそういう思いというのは、実 はここから始まります。
私の経歴(自己紹介)
私の最初の勤め先は、養護施設です。児童養護施設です。そこでは、子どもは外の学校、小学校・ 中学校へ通うわけですけれども。あとは全部、もちろん施設の中で生活をします。外へ出るのもなか なか思うようにはいかない。そういう中で、子どもは土・日には学校がないから、余計に職員は忙し いんですけれども、平日は当然交代で休みますよね。ある日、私が、平日休みをもらって養護施設か ら外へ出ようとした時に、あれは夕方でした、昼過ぎですか。たまたま帰ってきた子ども達が、こう 言いました。「わあ、先生は良いな。休みがあって。」と。
そこで、はたと気がつきました。「そうや、この子らは本当に心が安らぐ休みの日ってないんや。 心が安らぐということは、1日も早く家に帰ることや。」と。というのも、養護施設では今でも時々 新聞記事になっていますよ。職員の暴力が、体罰が。虐待ですよ。ルール違反を犯した中学生をバシ バシ、どつきますよ。私達、新米が止めてもだめです。体罰を受けた中学生はどうしますか。その腹 いせに小学生に当りますよ。小学生を徹底していじめます。実に陰湿ないじめ方をします。物を隠し たり、いろいろありとあらゆることをやります。やられた小学生はどうしますか。身の置き場がない。 何かやらなければ気持ちが修まらない。当然、自分より弱い幼児に当りますよ。幼児への暴力を振る う。現実にあった話ですが、猫を虐待していましたね。まさに虐待が連鎖するというのはそういうこ となのだろうと。それが改まらない。
もう 40 年も前ですよ。その頃でも、今でもそういうことが起こっていて、子ども達が児童相談所 へ駆け込んだり、いろんなところへ投書したり、していました。学校でもそうですよ。そういう教育 や福祉の現場でそういうことが平気で行われていた。私は、養護施設が「児童福祉施設」と名乗るの は恥ずかしいなと思いました。何が児童福祉やと。もちろん、今はかなり改善されていますけれども、 当時はすごかったです。しかも、入ってくる子ども、ほとんどは両親がおります。また、片親がいます。それは当然ですよね。 昔の養護施設の呼び方は孤児院じゃないですか。まさに孤児ですよね。孤児だから生きられないから、やむなく預かる。もちろん今だと、この国では里親とかいろんな形で、施設へ行かなくてもいい 方法はあるはずなんですけれども、養護施設へ行ってしまう。
孤児がいるなんてことは、今の世の中。 もうよっぽど両親が交通事故で亡くなったとかの場合は孤児になるんでしょうけれども、両親ないし 片親がおるのに養護施設に入ってくる。何でだろう?当時から、その頃によく流行った言葉が「父親 が蒸発した。」とか、蒸発という言葉が流行ったときですね。ある日、急にいなくなってしまう。そ して、片親は子育てができないから施設に入れる。当時はまだ地域の支え合いというのが、今より以 上はあったですよ。だから、施設へ行かずに、隣近所で、地縁・血縁で、子育てのしんどい家庭を支 援していた、支えていたというのはたくさんあります。でもそうでない家庭は、どんどん養護施設へ。
私は、そこで思ったんですよ。何でそんなに簡単に片親・両親がおるのに施設へ来るんだろう。血 縁がどんどん薄くなってきたのか、また地方から出てきて身内がそばにいないのか。それは仕方ない としても、じゃあ地縁はどうなんだ。地域の隣近所、困った時はお互い様。そういうのは昔からあっ たじゃないか。私自身も、隣近所のおっちゃん、おばちゃんからとてもかわいがられたり、一緒にご 飯を食べさせてもらったりしたことを覚えています。地域の力が弱くなった。
だとしたら、確かに養護施設で「ああ、恵まれない子のために」と思って入ったけれども、なかな か解決ができない。だから地域の施設へ行って、そこで養護施設に行く子にストップをかけよう。そ ういう大それたことを考えたわけです。
ちょうどその頃、私はボランティア協会というところへ出入りしていて、そこの理事長の大阪市大 の教授の柴田善守先生でした。今はお亡くなりになっていますが。その先生が私のそういう思いを知 って「小掠君、実は浪速区で愛染橋という施設があるけど、向こうで職員探しているで、行ってみい へんか?」。私はそれを聞いてすぐ転職の決意をしました。そして愛染橋児童館へ来たわけですね。
数ヶ月経って、こんな仕事を言われました。「小掠君、今から一緒にちょっと町へ出てくれ」と。 私の上司は分厚いノートを持って、ついてこいと言いました。それでずっとついていくと、どの家も どの家も高齢者の家ばかりです。道々いろいろ話を聞きました。「今、この町で高齢者が増えてきて いるから、でもその高齢者が寝たきりであったり、その高齢者が独り所帯であったり、そういうとて も大変な、1人ではなかなかやっていけない高齢者家庭があるから、それを今調査している」と。
特に体が悪いとか、当時はもちろん介護保険なんてないですから、せいぜい入院とか医者が往診す るとか、そういう資料づくりですね。その調査には浪速区の医師会、浪速区の保健センター、そして 愛染園、合同でやっていました。愛染園はそういうセツルメントの歴史に基づく施設です。セツルメ ントが大切にしていること、それは調査ですね。調査をすることで地域のニーズを掴む。今、この地 域では何が求められているんだろう、何が不足しているんだろう。与えられた仕事をするだけじゃな くて、自分たちで町のニーズを探す。私は、愛染橋でそれをトコトン教えられました。
「先生はお休みがあって良いな」という(子どもの)一言が、私を変えてくれました。それから、 1978 年に釜ヶ崎へ来たわけですね。4月1日でした。愛染橋から釜ヶ崎へ。ちょうどその3年前に、 「今池子どもの家」が大阪市の委託を受けて、児童館として発足しました。
入った途端、私の頭上を何かが飛び交っています。それは漫画の本です。子ども達がどうして遊ん で良いかわからないというか、何か胸に溜まったものを吐き出すためか。漫画の本って結構分厚いで すよね。それを飛ばし合いするんですね。そばにおって小さい子に当って、ワンワン泣いています。 そんなん平気です。「ああ、この子らは遊び方を知らない、いや、この子らは何か思いきり体を動かしたい、何かできることを探さなければ」と思いました。 ある子はポケットからナイフをチラつかせます。威嚇をしています。ある子は、そばにある職員のテーブルに置いてあったハサミを持ってきて、そして部屋に飾ってあったチューリップをチョキチョキ切って回っています。ええ、何てことをするんだろうと思いました。そういう日が続きました。そ こで私がふと思ったのは、何かスポーツをやろうと。「やめなさい」という言葉はできるだけやめま しょうと。
私らは、保育園でも職員たちに「危ない」とか「やめなさい」とか「だめ」そういう制止用語・禁 止用語はできるだけ使わないようにしようと。「そんなことして良いかな?」とか「あ、こんな面白 いことがあるよ。」とか、他の方へ持っていったら、間もなく大人の危い遊びから外れて、違った遊 びに変わったり、ふと自分のやっていることに気がついたりします。
卓球クラブの創設
そこは、生活館という生活困窮者の市営住宅で6畳の4部屋分をぶち抜いて、ワンフロアの集会所 になっていたのを「ここを使ってやってください」と頼まれたんですね。古い卓球台がありました。 もう凸凹です。卓球台で凸凹というのは面白いですよね。ボールがどこへ飛んでいくかわからへん。 そこで、私は「あ、この町にはグランドがない。」サッカーか野球か、本当はお日さんの下で思い切 り汗をかくことをやりたかったけれども。その当時は、わかくさ保育園の前の四角公園(炊き出しを やっている公園)は、まだ使われていました。保育園の子らが、あそこで遊んでいましたね。
でも、手取り早くできるので卓球を使おうと。私は卓球の選手の経験はないんですけれども、遊び ではやったことがあります。ですから、子ども達と一緒に遊びの中から、ゆくゆくはクラブをつくっ てそこに集中してと、でも内心は上手く行くかなと思いました。この卓球クラブが、子ども達が目の 色を変えてやり出したのは、対外試合へ出掛けてそこでコテンパンに負けた時からです。
大阪には、当時児童館というのが、今池も入れて 11 館あって、そこでよく交流をします。特にど の児童館も卓球ぐらいしかスポーツがなかったんですね。どこでも卓球台を強い子が独占する。悪ガ キが独占するというのはよくありますよね。ある日、対外試合に行きました。最初は止せば良いのに、 10 館でいつも優勝しているA児童館。ここからすぐ隣の区ですね。そこへ試合を申し込みました。 同じ負けるならコテンパンに負けたら良いだろうと。そうしたら本当にコテンパンに負けて、子ども 達は大ショックですね。
一番ショックを受けたのが悪ガキです。ナイフをチラつかせていた子です。卓球台を独占していた 子です。「俺だけ強なってもあかん」と。実は1勝 13 敗で、1勝は彼でした。彼は気持ちを変えまし た。自分だけ強なってもあかん。団体戦です。だから、皆が強くならんとあかん。それから、ルール がつくられていきました。順番を守るとか、何本1セットでどんどん交代するとか。1台しかありま せんから、当時は 10~15 人ぐらい集まってきて、クラブができました。
2~3 ヶ月後、今度は No.2 のS児童館に行きました。その隣の区です。No.2 ですから強い。その時 は確か3勝 10 敗ぐらいですか。そのうちの1勝は私です。見るに見かねて「わしも、やらしてくれ。」 でも、もう1人の子が勝ったんですね。「やった、すごい!」その子だけ喜ぶんじゃなくて、皆が大 喜びしました。「おっ良い調子になってきた」と。そして、子どもの家の子ども達はどんどんいろん なことに挑戦していきました。卓球をし出したのが 80 年頃ですね、クラブができたのは。
それから3年後に全国大会に出るようになって、1985 年には小学生の団体戦で全国2位に入りま した。翌年 86 年には、卓球台がようやく2台に増えました。それでも横へ置くんじゃなくて縦に並べて置かなあかんぐらい奥行きがない、背中同士当たる。下手すりゃラケットが当たる。そのような 狭さで全国優勝しました。小学生の部の卓球大会。元国体選手とか、元世界選手権に出た選手とか、 そういう人らが皆、コーチをやります。そういう人らが卓球教室を開いて有料で子ども達を指導しま す。そういう子ども達を破って、今池の子ども達が勝ったことの不思議さ。
全国からたくさんの人が見学に来て「ええ?ここで練習してはるんですか?」と、その部屋を見て びっくりしていました。私達が逆に招かれて、名古屋や他府県の試合に出ました。優勝したら結構招 待が来るじゃないですか。行ったら、本当に選手より卓球台の方が多いようなところで、練習してい る子らもおります。そういう子らはいつでも練習ができる環境にあります。「いつでもできるから。」 という子らと、一度ミスをしたらなかなか順番回って来ない今池の子らと、ここで集中力に差がつく なと。私は、割とプラス志向でいつも言っているんです。「何で卓球台が1~2台しかないのに、何 で指導者が素人で、お金もなくて。」そんなん考えていたら何もできませんよね。「そうか、このハン グリー精神やな。」と。どの町の子も学校が終わったら、そら英語やそらピアノや算盤や、いろんな 塾に習い事に行っていますよね。西成の子ども達、釜の子ども達は習い事なんて、まずほとんどして いません。当時(習い事に)行っていた子を私は知りません。それだけ時間的に余裕もある。ラッキ ーじゃないですか。
児童館、11 館あると言いましたけれども、その当時からテレビゲームは流行っています。だから 児童館へ来んと家で遊んでいる。児童館にとったら恥ですよね。児童館が遊びの宝庫、そこへ行った らいろんな遊びができる、いろんな遊び友達がいる、いろんなことに挑戦できる。それがテレビゲー ムに負ける。今池の子ども達は卓球やけん玉に集中して、本当に素人ですよ、私は。素人の指導者で お金なんてない、例えば全国優勝したから東京へ行く、親はびっくりしますよ。「ええ、うちの子卓 球やっていたんですか?」と、そんな親もおりましたよ。でも、そこを支えてくれたのは、地域です ね。早速、地域の町会長さんが、後援会をつくってくれました。その後で優勝してから、またドッと 後援会が増えました。当時の西成の区長さんも応援してくれました。今まで西成の記事といったら、 やれ殺人だ、やれ放火だ、やれひったくりだ。西成で明るいニュースなんか聞いたことがない。
それが、子ども達がこれだけ頑張ってくれたと、本当に喜んでくれました。喜んでくれたおかげで、 西成区長命令で区役所の課長連中を皆、後援会の会員になってくれました。それで遠征費が出せたわ けですね。子ども達のユニフォームが買えたわけですね。無かったら無いで何とかなると思いました。
地域のネットワークづくり
でも、私が、いつまでも今池におれなくなって、92 年でしたね。わかくさ保育園の園長と兼任に なりました。そこからちょうど体も悪くして、実際に腰を悪くしたんですよ。練習にもあまり行けな くなって、できなくなったんですが。同時に、地域の中でかなり深刻なケースが続出していました。
何とか関係者が集まって、ネットワークをつくって、こういう問題に対処しなあかんなと思い始めたのが、1987 年の頃です。私はその頃、よく覚えてなかったんですが、ある印刷物を見れば、そこ に私が何かの研修会で発表した、そこには「地域でネットワークをつくりたい」という言葉が入っていて、「あ、1987 年にネットワークというのが発想としてあったんだな。」と思ったわけです。
でも、実際にできたのは95 年です。思ってからできるまで、8年かかりました。95 年にできたきっかけになったのは、84 年のある出来事です。1984 年、子どもの権利条約です。国連で決めた子ど もの権利条約は、実は1979 年に条約としてはできていたんです。そして、賛成する国が署名します。 署名して、しばらく経ってそれに批准するというか、自分の国でも子どもの権利条約を適用しますよ、自分の国の法律を権利条約に合わせますよと。そういうのがきっかけです。
1989年に国連が子どもの権利条約を採択して、翌年90年に日本が署名した。この時も109番目です。当時、確か180ぐらいの国があったでしょう。それから、正式に国連で決め、日本の国に適用しますというのを、批准というんですが、それをしたのが94年で、何と158 番目です。他の名前も知らない国がどんどん子どもの権利を守ろうということで、批准していった。にも関わらず、日本では体罰がまかり通っている。そういう中で、福祉や教育の関係者から
「そんなん、体罰せえへんかったら、施設の規律が守られへん」と、いろんな反対の声が堂々と出ました。 しかし日本の国も、外の国がどんどん批准してきていることの影響をもろに受けて、恥ずかしくなったんでしょうね。158番目。下から数えた方が早いじゃないですか。しかも、知らない国がたくさん、100ぐらいあるじゃないですか。にも関わらず、158番目で批准です。
でも、私達はそれをきっかけに、子どもの権利条約をこの釜ヶ崎の町の子ども達にも適用させていこうと。子どもには守られる権利がある、子どもは生きる権利がある、子どもは発言する権利がある、子どもはいろんな物事を決めるのに参加する権利がある、子どもは虐待から守られる権利があると。どれを見ても釜の子ども達には欠けていることばかりだと。
よし、これを盾に。そこから始まったのが、8年間、つくっては潰れ、つくっては潰れ。レジュメ の方では三転び四起きと書いていますが、実際3回失敗したのを覚えています。つくって呼びかけても、1回来ても、次から来ない。そういうのが続いたのは、もちろん私達の働きかけが弱かったんでしょうが。そこで大きな力を発揮したのが子どもの権利条約です。今では30数団体が1人の子どもを、1つの家庭を守るために、毎月定例で第4木曜日に行われています。
相談事例の紹介(1)
さて、今から7~8年前でしょうか、8月の終わりの台風が来るという日でした。「もう明日ぐらい 台風が来るんちゃうか」「いや、今晩ぐらいになりそうやで」という日でした。その時に保育園の電話が鳴りました。どこからかというと、同じ町にある救護施設、生活保護の施設ですね。救護施設の相談所から「小掠先生、今、うちの相談室に親子のホームレスが来てはんねんけど、子どもさんを連れてはるんで、そっちへ電話したけど、ちょっと相談に乗ってくれませんか?」と。すぐに飛んで行 きました。この町ではいろんなところに発見の目があります。今、虐待で西区の事件とかいろんな事件、悲しい事件が起こっていますが。例えば、早期発見というのは何でも、病気でも虐待でも言えることですよね。早く発見して早く対応する。でも、それを誰が見つけるか。見たってどこかへつながないと、見つけたことにならないですよね。
子どもとは、関係のない、どちらかといえば高齢者、生活保護の施設が、子どもがいるということで連絡をくれた。これは日常的に施設間の連携を取っている。施設の連絡会ができたのが2003年、7年前ですね。ちょうどその頃ですね。西成区社会福祉施設連絡会ができました。この施設の連絡会、例えば、保育所は保育所だけで、もう当たり前のように連絡会をやっていたわけですよね。いわゆる同種の連絡会というのはどこでもやっています。種別を超えて、西成区にある、今59の施設が加盟 してますが、一堂に皆集まって情報交換しようと。子どもの施設が、子どもだけの仕事をするのではない。先ほど開会の時に紹介していただいたように、子どもの施設が子どもの問題だけをやるんではない。子どもを取り巻く環境を改善していかないと、本当に子どもの問題は解決しないです。高齢者の問題は、高齢者の施設が高齢者だけをやっていてもいけないです。一緒のことです。
皆の意向は地域ということで、今日はその基盤がそこにあります。だから地域の施設という、私達は、単なる児童福祉施設ではない、地域福祉施設という名前で呼んでいます。全国の仲間、大阪の仲 間と地域福祉施設協議会という協議会をつくっています。ほとんどが昔セツルメントだった施設です。種別を超えた施設との連携のおかげで、ホームレスの親子が見つかった。でももうお金を使い果たして、きっと近所で安い弁当を買っていたんでしょうね。1つの弁当を分けていたんでしょうね。もう泊まるところもなくなって、食べるものもなくなったので、相談に来たけれどもということです。す ぐ飛んでいきました。
このケースもね、児童相談所、また、区役所へ相談したら、「あ、はい、じゃあ母子寮」というこ とになります。このお母さんは病気を持っていました。それから、その前にもう1つ、養護施設とい う話も当然出てきます。母子寮というのは結構詰まっている日が多くて。今、大阪で確か4ヶ所ある んですけれども、その緊急の時の、「緊母子」といって緊急母子寮という制度があるんです。必ず1 つか2つ、部屋が常時空いていて、緊急のケースはそこへ入って、最長2週間はそこでおれるという 施設もあるんですが、大概詰まっています。「あ、もし母子寮があかんかったら、児童相談所の一時保護所だな」と、一時保護所で長期間経つと児童養護施設送りです。これは私自身が養護施設を飛び出してきた思いに背くわけですから、何とか地域で守っていこうということになります。
私が、すぐに思いついたのは保育園の近くにあるサポーティブハウス、いわゆる生活保護の人たちが大半のアパートですよね。そこのオーナーとも別のネットワークでつながっています。元々100~200軒の簡易宿泊所、いわゆるドヤですね。どんどん不景気で空室が目立ってきた。これではやっていけないから、ホテル業はやっていけないから、アパートに変えようと。ちょうどその頃どんどん高齢化、生活保護の高齢者が増えてきた。その人たちを対象にというので、今ではかなりの数の生活保護を対象としたアパートができていますよね。ただ、単に看板を付け替えるというだけの施設が大半です。入ったって何のケアもない。もちろんアパートだから期待する方が無理かもしれませんが、でも高齢で、時には病気を持っていたり、時にはアルコールでいろいろと苦しんでいたり、いろいろ1人ではとても大変な方々が多いじゃないですか。そこで心あるオーナーたちが考え出したのが、サポーティブハウスという組織です。今、確か10 ヶ所ほどあります。
そこの1つのオーナーに頼んで、オーナーは「あ、良いよ。部屋、ちょうど空いていますよ。」と いうことで、空き室にその親子3人が無事入ってもらいました。夫のDVから逃げてきて、お金を使い果たして。「それまではどこに泊まっとったん?」と、そのアパートへ行く途中で聞くと「ここに 泊まっていました」と。覗かせてもらったら、2畳ぐらいの部屋ですね。長細い2畳ぐらいの部屋で、ここで1日なんぼか忘れましたけれども、800円ぐらいでしたか。そういうお金を払って。しかし、使い果たしてしまったというケースでした。
でも、じゃあ食べるものはどうする。寝るところは、雨露はしのげる。私達はあいりん子ども連絡会というネットワークを95年につくってから、その活動が評価されていました。実は朝日新聞から「朝日のびのび教育賞」を受賞しました。そして表彰の賞金が何十万かあったんです。それを何に使おう、いざという時に、困った人がいる時に使う緊急の、何かそんな基金になったら良いなと。前からそういうのが要るなと思っていたんです。例えば役所へ駆け込んで「何とかしてください。」と。役所の基金というか、緊急援助資金というのは最高で確か3万でしたかね。普通なら1万ぐらいしか貸してくれません。また、その1万もなかなか貸してくれません。あいりん子ども基金ももちろん「お金ができたら、また後で困った人のために返してね」ということでお貸しします。
このケースは住むところが見つかったが食べるものがない。そういう時は保育所から現物を提供します。保育園でつくった給食の余った分とか、そういうものを持っていったりします。このケースも生活保護につなげました。こういうケースというのが、不思議なことに金曜日によく起こるんです。 しかも、間もなく夕方というような。なぜそれがあかんかわかりますか?「うわ、もう役所が閉まってしもたわ」と。役所が開いていたら利用できるやつは皆、利用しなきゃだめじゃないですか。こう いう時はどういう制度を使える、こういう時はどういう施設が使える、そういうことはしっかりと知識として掴んでおくことがとても大事だと思いますね。
しかし、制度や資源に当てはまらないのがたくさんあるわけですよ。時間外だってそうじゃないですか。いっぱい制度があったって金曜日の6時になったら、制度を使おうにも電話は受けてもらえないじゃないですか。今、ようやく虐待で24時間、通報で誰かが受け取るというように変わりました、西区の事件以来。通報があったら、今まで48時間以内に家庭訪問をしなきゃいけない。それが、本庁から課長クラスが皆動員されて、児童相談所に待機して。そして誰かができるだけ早く行かなきゃいけない。そのように何かが起こったら、新しい制度とか仕組みが作られていくわけですけれども。 何か悲しい事件が起こらないと、そういうことって前へ進まないのが現実です。そういうことで制度が利用できないので、あいりん子ども基金とか、釜ヶ崎地域は、特にそういう制度と制度の狭間にあるニーズにどう対応していくか。明日台風が来るかわからないという母子3人家族に「じゃあ、また 月曜日にいらっしゃいね」ということを言えますか?とても言えない。何とかしましょう。何とかするためには仲間が要る。それは施設とか役所だけじゃなくて、民間も含めて、地域あげて皆で守っていこうと。
相談事例の紹介(2)
「大人のホームレスもとても残念だけれども、子どものホームレスだけは絶対見逃すな」というのが、私達の合言葉です。こんなことがありました。あいりん子ども連絡会のある会合で、この連絡会は中学校・小学校・保育園、ありとあらゆる子どもに関わる施設や役所が入っています。地域では主任児童委員さんとか、来ています。保護司さんも参加しています。ある月の連絡会で、中学校の先生が「うちに来ているMさんのお姉ちゃん、兄弟が5人おります。長女が最近、お弁当をよく忘れると。ずっと1週間ぐらい続くから、皆職員が交代で自分のお弁当を半分提供して、以前そんなことはなかったのに毎日続いているからどうしたんだろうな、学校で気にしているんです」と発言しました。それを聞いていた小学生の先生が「あ、その家庭の弟2人、小学校に来ているけれども、最近よくトラ ブルを起こし、友達と喧嘩をしたり、いじめをしたり、何か今までとは違う」と。それを聞いていた保育所の保育士が「その兄弟の4番目の子、最近元気がないんです、あまり食べてへんのとちゃうかなと思うんです、お風呂も入った形跡もないし、下着もずっと同じものだし。だから、保育園で着替えてシャワーを浴びて朝ご飯を食べさせているんです」と。朝ご飯を食べないケースは、今でも何ケースかありますね。5人中4人まで「あれ、どうしたんやろう、その家庭?」となります。今まで中学校の先生は1番目の子しか見てないんですよね。小学校の先生は2番目、3番目の子しか見てない。そのように皆、部分しか、当然見てないわけです。
ところが連絡会に行くと、家庭全体が見えてくるじゃないですか。1人だけだったら「あ、どうし たんだろう」で済んでいたのが、兄弟そろって何かおかしいなと。その時、ある人が「その家庭は最近、数ヶ月前に赤ちゃん生まれたんちゃうか?」と。私達はすっかり赤ちゃんの存在を忘れていまし た。ここですよね。上の子はどこかに所属しているから、まだ発見しやすい。西区の事件もどこもつながっていない。地域ともつながっていないし、子育て支援関係ともつながっていない。肉親ともつながってなかったじゃないですか。だから、長期間ああして放置されても誰も気付かない。
私達が、いかに早く発見するか。でも、このケースはかなり遅れたケースでした。私達はその5番目の子がいるということを改めて知って、そしてすぐに家に飛んでいきました。そうしたら、赤ちゃんは、とても病弱な感じがしました。見ただけで、これは放っといてはいけないと。私達はその前に、 同じネットワークのメンバー7に愛染橋病院の小児科のドクターがおりましたので、「先生、会議が終わったら家庭訪問をするけど、もし何かあったら時間外でも頼むで」と。すると「ああ、良いですよ」と言ってくれました。私達のネットワークは福祉・教育・保健(医療)。それらが民間や公立も含めて、いろいろと混ざっています。それに地域。そこに医療が入るというのはとても強みです。一緒に行った仲間と、親を説得しました。しかしその親は外国人で、言葉も十分伝わらない。
それで、保育園を卒園した同じ組の保護者に頼みました。言葉が十分伝わらないので、通訳を頼んだわけです。でも、子ども達にご飯も食べさせられないぐらい生活に困窮しているわけですから、病院に行くことは当然渋りますよね。その家庭は、あとで聞いたら、子どもが病気の時はやむなく病院に連れていくけれども、親が病気の時は、我慢をする。お金があったら薬局で買うけれども、他は辛抱して済ませている。子どもも、そんなにしょっちゅう病院へ行けていない。今でこそ、子どもは500円出したら皆、無料で診てくれるんですけれども。それで、すぐ病院へ連れていきました。その通訳の人を通じて。親が渋ったのは医者代が払えないから。「ここの病院は大丈夫、ちゃんと話をつけてあるから。ある時に払ってな。」ある時払いで催促なし。それで、渋々行きました。
病院に着いたらドクターが診察して、すぐ点滴でした。その赤ちゃんは自分でおっぱいを飲むという、ミルクを飲むという、そういう力が非常に弱っていました。かなり長期間、その病院におりましたね。2年か3年おりましたね。まるで施設同然で、家に帰ってもとても親がよう見んだろうと。そこから施設に行きました。乳児院というところは満2歳までですよね。でも、発育がとても遅れている。私達が行った時は、ミルクがそばに置いてあったので、「あれ、赤ちゃんにはちゃんと飲ませていたのかな」と思ったんですが、実は、そこに入っていたのはお米のとぎ汁だったわけですね。見ただけではミルクと変わりません。お米のとぎ汁。水分は足りていたけれども、栄養は全く足りていなかった。それで発育がかなり遅れたわけ。
私は、このネットワークのおかげでそれに気がついたということとともに、なぜもっと早く発見で きなかったんだろうという後悔の方が強く感じたわけです。発見するのは施設の職員・関係者だけで はありません。本当に発見するには地域住民の力が要ります。
相談事例の紹介(3)
こんなケースがありました。ある日、ちょうど午後5時前後から保育園にお迎えが来ますね。2人の兄弟を連れて帰ったお母さんから電話です。「確かさっき保育園を出たところなのに、どうしはったんかな、忘れ物かな?」と。ちょうど私が電話に出ました。「園長先生、私が家に帰る道でゲームセンターがあんねんけれども、ちょうど商店街の入口に大きなゲームセンターがある。そこで、昨日も今日も一昨日も、たぶん同じ兄弟らしい子らがうろうろしているねん、服も皆、毎日同じ服やねん」 ということで電話をくれたんです。普通、通り過ぎてしまいますよね。私は「ありがとう。」と言ってすぐに自転車で飛んでいきました。上の2人が小学生ですね。下がまだ学齢以前ですね。上の子らに聞きました。そうしたら、私達と同じネットワークの小学校です。その小学校にあとで帰ってから 聞いたら「実はお父さんが地方へ出張して、今家にいない。お母さんが昼間の仕事から、もっと稼ぎの良いところ、夜の仕事に行った。だから、昼間以降誰もおれへん。学校としても心配しています。」 ということでした。だから子ども達は行き場をなくして、ゲームセンターに出入りしていたのでしょう。 でも、お金を持っているわけじゃない。時には、おっちゃんたちが子ども達にお金をくれたりすることがある町なんですけれども。私が行った時もうろうろしていた。結果的には、学校側の働きとか、そして下の子はすぐに保育園に入れて、できるだけ夜遅くまで見たこともあったんですけれども。結果的にはお母さんが昼間の仕事に戻って、夜、全く放ったらかしということはなくなりました。お母さんは生活で精一杯だったんですよね。その生活で精一杯なのを優先するか、子どもの子育てを優先するか。両立するというのはとても難しいですね。
西区の事件がそうでしたね。母子でしたね。四日市の出身でしたよね。そして名古屋で勤めて、そこから大阪へ来ました。もう働くといったら水商売しかない。ちょうど西区のあの町から難波まで自転車で10分ぐらいです。南堀江という町。水商売といえば夜の仕事。そこで子どもをどう、子育て支援、夜間保育をやったりとか、何か相談にのる人がおったら、何かもっと違った形になったんじゃないかなと思うんですけれども。このゲームセンターのケースはもちろん何の大事もなく終わったん ですが。私はこのように町の人が何か気になるなと、放っとけないという気持ち。これって、全員が全員持ち合わせているわけじゃないですよね。気にされる方ってどういう方だと思います?
実はこの方、子ども2人が障がい児です。自分の子どものことで精一杯と思いません?実際、かな り苦労されていましたよ。でも、自分の子どもで苦労するから、よその子を見て「ああ、この子らも」 と思ったんとちゃいますかね。苦労しているから、他の人がそこまで見る余裕がないという場合もたぶんありますよね、一般的には。でも、放っとけないという思いは、苦労していようがしまいが、お金を持っていようといまいが、本当は皆が持ち合わせたら良い、そういうものだと思うんですけれども。私達の法人の基をつくった石井十次はとても熱心なクリスチャンだったんですが、聖書の中に出てくる隣人愛というのを、私達の一番大きな理念としています。
そのためには、地域住民や利用者の子ども達の権利擁護や自己実現を目指そうと。皆が隣人愛を持つような、そういう町づくりをしようと思っています。ただ、隣に住んでいるから隣人とは言えない。 ある牧師さんから教えてもらいました。隣にいるから隣人、ではない。隣の人になりきらなければいけない。その違いがわかりますか?ただ隣にいるということは、言葉を交わさなくてもただ物理的に隣にいるだけじゃないですか。だから困っても気が付かないですよ。でも困ってはったら「どうしはったん?何かお手伝いしましょうか?」これが隣人愛だと教えてくれました。「ああ、この気持ちで虐待防止や子育て支援に生かせれば」と思いました。
そのネットワークの小学校の教頭がこういう相談を持ってきました。3人兄弟で小学校に来ているんだけれども、母子家庭です。お母さんが重病で、今入院しはった。入院しはったので、関東の方からお母さんのお姉さんが自分の家庭もあるんだけれども、家を空けて子育ての応援に来てくれている。 しかし、もう1ヶ月近く経ったので、いつまでもおれない。家のことが心配だ。帰らなきゃいけない。 さあどうしようと。選択肢がいくつかあります。
1つは、施設へ入れるしかない。もう1つは、私が関東へ連れて帰る。それも大変ですよね。子ども達にとったら、住み慣れた町から離れる。通い慣れた学校から離れる。私達は子育て支援をする時に、これも合言葉のように、子どもの周りに何かが起こったとしても、その変化を最小限に食い止め る。子どもの周りに変化が起こりました。お母さんが重病になりました、入院しました。とても大きな変化ですよ。しかし、その変化を最小限に食い止める。お母さんが入院した、子ども達は関東へ行ってしまった、子ども達は施設へ行ってしまった。お母さんが入院して寂しい思い、そして学校の友達も地域の仲間も隣近所のおっちゃんもおばちゃんも、皆離れ離れになって、これは大きな変化じゃないですか。お母さんが入院したという大きな変化だけれども、それだけで何とか食い止められる。 ということは、地域で継続して生活するということですよ。何とかなりませんか。教頭もよくそういう思いをしっかり持ってはります。だから相談に来はったんです。ところが、それからはどういう 方法があるか。今日も来られている「子どもの里」、そこも緊急の場合はたくさんの子どもを預かってくれている。最終的にはもうそこへ頼もうと思ったんですが。その教頭から「園長さん、ちょっと」 という電話がありました。意外な結末です。意外といったら失礼ですね。3人兄弟がそれぞれクラスに所属していますよね。その同じクラスの友達の親が、例えば5年、3年、1年とおります。5年生 の長女のクラスの友達の親が、3人いっぺんだったら大変だけれども、同じクラスの子同士だから「良かったら、上の子だけやったら面倒見ますよ」と。3年の子の親も同じ思い、1年生の子も。3人バラバラになるけれども、学校へ行ったらいつでも会える。隣近所、皆同じ町やからいつでも会える。
同じ町で暮らせるという方法が見つかった。これもまた、地域の力ですよね。これも制度から考えられない。私達は、つくづく地域の力ってすごいな。これからの地域福祉は、今ある制度や資源を精一杯使いこなす。足りないところがあればそれを変えていく。変えて行くには実績を残さなければいけない。実績は民間の施設や住民が力を合わせて、そういうまだ制度になっていない事業をやる。それを制度化させていく。これは今までもあったわけです。なぜ制度化が必要かというと、他にも似たようなケースがあればそれが使えるじゃないですか。他の地域で釜と同じようなネットワークはできていませんよ。他の地域だったら、それで養護施設送りですよ。
この虐待防止のネットワーク、また子育て支援のネットワークは、残念ながら西成だけです。他の町が、よくネットワークを勉強したいということで来られます。ついこの1~2 ヶ月の間に2つの区から来られたり、また私を呼んで勉強会をしました。皆、何とかネットワークをつくろうと思っています。いつも言います。「西成も3回も4回も、作っては潰れ、を繰り返したんですよ、時間をかけて、ぜひ力を合わせてやりましょうね」と。
だって、西成に生活していて引っ越しする子がおるじゃないですか。家が狭くなったからどこどこへ移る。そうしたら、西成以外やった。そこでは、今出たような困難なケースに対してネットワーク がそれに対応するというのができないじゃないですか。だったら、同じ大阪市民であっても同じサー ビスを受けれない。私達は24区、できれば全国に広げたいと思うけれども、せめて大阪中で同じサービスが受けられる、安心して引っ越しができる、そういう町になったら良いなと思います。今の3 兄弟が、結果的には短期間でしたが、バラバラになって、また復活しましてね。
相談事例の紹介(4)
今度は家族4人がバラバラになるというケースなんですが。このケースはDVが原因で、そしてお 母さんが子ども2人を置いて家を出ました。お父さんは日雇いです。お父さんは朝5時から仕事を見つけにセンターの方へ行かなきゃいけない。ところが、保育園に送り迎えしていたお母さんがいなくなったと。寝たままの子どもを置いて、お父さんは仕事に行けない。さあ、お父さんは困りました。 毎日毎日仕事を休みました。しかし、長続きできるはずがないですよね。私達はそれに気がついて、 家庭訪問をしました。今、うちでは職員たちが皆、手分けして家庭訪問します。私が家庭訪問するのはよほど重いケースの時なんですが、このケースには行きました。何回目かの家庭訪問の時に、お父さんが、「どうぞ上がってください」家庭訪問は迷惑がられるときもありますが、その時は「どうぞ上がってください」と。この時はいろんな話をしてくれます。特に親が子どもの頃の話です。生育歴を話してくれました。そんなことまで、喋りはって良いんですかということまで聞かせてくれます。
この時にお父さんが言った言葉は「わしも養護施設出身や、だから、この子らは絶対施設には行かしたくない」と。その思いで仕事も行けず、かといって児童相談所にも電話せず、悶々とした日々を過ごしてはったんです。こればっかりは朝5時に保育園を開けるわけにいかない。
さて、困った。虐待のネットワークが95年にできたと言いましたが、虐待防止は子育て支援から というので、お母さんたちを中心とするネットワーク「わが町にしなり子育てネット」、これは参加自由です。虐待防止のネットワークは厚生労働省が決めたネットワークで、これは守秘義務を課せら れている虐待防止の公的なネットワークです。子育てネットは民間のネットワークです。その会合に 私は出て、もちろん守秘義務がありますから、詳しいことは言えないけれども、「こんなケースで困っています」と大雑把に言いました。それを聞いたメンバーが数日後、私に電話をくれました。「小掠さん、こないだの話やけどな、朝、お父さんが仕事に行ったあと、子どもの面倒を見て、時間になったら起こして朝ご飯食べさせて、保育園に連れていく。これぐらいだったら、皆子育ての経験者だから、これぐらいやって良いよという仲間がそこそこ集まってんけどな」と。私は耳を疑いました。 朝の5時からですよ、お父さんが仕事に出掛けるのは。「でもな、毎日は大変やろ?だからな、月曜から土曜まで6人集めようと思ったら、8人集まったで」と。もう一度耳を疑いました。「ようそんなことやってくれる人がおるな」と。先ほどの、ゲームセンターの前で発見した親が「人ごとではな い、放っとけない」と話しましたが、ここにも放っとけない人たちがいてくれたんですね。
私は、その話を父親に伝えました。父親はこう言いました。「わしが悪かった、わしが母親に暴力を振るったからこんなことになった。そのために、全然関係のない他人の人にそんな心配をさせて、申し訳ない。わしが謝ります。わしが嫁に謝ります。」と言いました。私達は、お母さんがどこに住 んでいるか掴んでいました。お母さんは子どものことが心配なために、時々電話をくれます。「また、何かあったら電話をくださいね。」ということで、居場所と電話番号を教えてもらっています。すぐ近隣の友達の家にお世話になっていました。お母さんに「お父さんが電話をしたいと言っているけれども、聞いてあげてくれるか。」という了解を得て、お父さんに電話番号を教えました。そして、お父さんが電話をして、お母さんは「わかりました」と。でも、そのお母さんは「子どもの母親としては戻るけれども、妻としては戻る気はありません。母親がいなくなって、そんだけ迷惑をかけたんやから、その分そんなことを皆さんにさせるのは罰が当たる。だから、朝は私が責任を持ってやります。」 と。朝お父さんが出たあと家に来て、子どもの世話をして連れてくる。それでまた戻ります。しかし、それからしばらくして、妻としても戻りました。
実はこの家庭、障がい児が1人おりました。もし何の助けもなかったら、もう生きていくためには施設しかないんです。そうしたらどうなります?1人は養護施設。1人は障がい児施設。お母さんは出て行った。今まで4人暮らしていた家族が4人バラバラになるじゃないですか。こういうケースも中にはあるわけです。この10年間、保育園を途中で辞めていった子を少し調べてみました。例えば、2001年から2005年まで、虐待という理由で保育園を途中退所したのは2件ありました。2件で3人です。それから5年、2006年から今年まで。今年はまだ途中ですが、今年まで入れて、虐待が理由で保育園を辞めていった、辞めていったということは、児童相談所を経由して養護施設です。13 家族、21人。ほとんどが母親の精神疾患です。統合失調症・人格障がい・鬱・アルコール依存・パニック症、それ以上はよく覚えていませんが、そこから、例えば何とか止めたいと思って薬は飲むんですけれども、それを飲み過ぎて朝起きれない。起きられないために保育園に連れて行けない。だから、保育園はやむなく迎えに行く。迎えに行くと子どもが喜んで飛び出してくる。そういう家庭はもちろん朝ご飯を食べていない。お風呂も入っていない。中には薬を飲み過ぎてとか、また覚醒剤に関係している親もおりましたし、それからアルコール依存がかなりきつい親もいましたね。私達はネットワークをつくって地域で守ろう、子どもたちが施設へ行かないための防波堤になろう。私はそのつもりで養護施設から地域福祉施設に来たつもりなのに、そのような状況に追い詰められつつあるわけですね。もちろん食い止めたケースもたくさんあります。お手上げというのは、子どもが精神的に異常を来す。そういうケースが3~4年で何ケースかありますね。だから何とかこちらを、今、これだけ重い症状を持ったお母さんを周りで支えていこうと思っても、一方、子どもがどんどん精神的にも参ってしまう。
それを見ていると、もうわれわれが頑張ろうと思ってたって、もう限界を通り越している。だから 児童相談所に迎えに来てくれるよりも、われわれが子どもを抱えて児童相談所へ連れていく。そういうケースも何ケースかありましたね。そして一旦親子が別れると、もうなかなか再統合はできない。 だって再統合しようと思ったら、親の病気を治さなきゃいけないじゃないですか。精神疾患はなかなか治らない。今日は専門の先生方が来ておられるので、ぜひアドバイスをいただきたいと思いますが。 そういうことも含めて、釜の町から子ども達がどんどん減っていくのです。萩之茶屋小学校からわかくさ保育園の前にかけて、あの通りを屋台通りと呼ぶらしいですが、まさに屋台が40数軒、ずらっとあった。中にはうちの保護者もそこで働いてはったから、なかなか撤去というのは言い出しにくかったけども。よりによって学校の壁に沿って、また保育園の向かいや横で朝からカラオケが聞こえてきますよ。朝から酔っ払ったおっちゃんがいろいろ窓を開けて言葉をかけてくれます。丁寧にお話するようにはしているんですけれども。
子どもの住む町へ
でも、普通の町になったら良いなと思いますよね。ようやく大阪市が重い腰を上げて、一斉に撤去 してくれました。あの町を、あの道路を舗装して、見違えるような道路にしようと、今そういうまちづくりのネットワークでいろんな案が出ています。学校の壁に何かの漫画みたいな楽しい、そういう ものがあったら良いなと。実現できるかどうかはわかりませんが、いろんな夢が飛び交い、ちょうどその学校の前の何十年使われていなかった萩之茶屋北公園(仏現寺公園)というのを、ようやく大阪市がそれを開放するというようになります。
町の子ども達が先日、大人も含めて100人ほどで公園の雑草をみんな綺麗に刈り取りました。私はあの前を通る度に「ああ、もうちょっとで子ども達はここで遊べるな」と。とにかく町の環境を良くしないと、この町に住む親子は小学校・中学校の入学期になると、私学の方に移っていきます。また引っ越しをしていきます。だから今、萩之茶屋小学校の児童数は70人台ですよ。1学年70人と違いますよ、全学年で70何人。1クラス10人ちょっとです。下手したら男の子しかいないというクラスも生まれそうです。
でも、私達は、学校が拠点。これ以上学校までなくなったらますます子どもがいなくなる。ということで地域の方々に、子どもがいなくなる日が近いうちにやってくるかもしれない、この町から、子どもがいなくなったら、どうなるんだろうということを常々訴えています。地域の方々が「自分ところには子どもがいない、もう孫も大きくなった。」でも不思議ですね、他のテーマではなかなかバラバラでも、「子ども」ということを共通のテーマにできるんですね。皆さん、子どものためにということで、とても熱心に団結して、何とかしようと。その成果が屋台の撤去、野犬の取り締まり、覚醒剤の路上での売買の撤去要請、今度も防止パレードをします。子ども達が住みやすい町にしないと、この町から子どもがいなくなる。
でも、教育委員会は児童数120人以下の学校を閉鎖すると言っています。すぐ隣にある弘治小学校も100人ギリギリでしょう。もう1つ、あいりん地区に隣接する今宮小学校も、確か約 140人前後でしょう。3つ足してようやく1つくらい。もう有無を言わさず、120人以下は統合、すでにそういう動きが出ています。これを何とか食い止めなきゃいけないという思いでいます。
今日はいろんなケースを通して子ども達1人1人が、実は大変な力を持っているんだ、エンパワメ ントを持っているんだ、子どもは守られるだけじゃなくて、自分達で町を良くしていく。これも町の環境を良くするというのに、子ども達も参加しています。そしていくつかのケースでお知らせしたように、町の住民が自分の子だけじゃなくて、このケースは放っとけない、この問題は見過ごせない。 そういう思いを持った住民が増えてきていますが、肝心の役所・施設・関係団体が、本当に真剣にその住民と子ども達と一緒になって手を結ばないと、この町から本当に子どもがいなくなる日はそう遠くないのではないでしょうか。
最後に、ちょっと思い出して古い手紙を見ていたら。2000年の3月に、10年前ですね。小学校2年生と3年生の兄弟、わかくさの卒園生なんですが、まだ妹や弟が在園しているので、お母さんと一 緒にお迎えに来た時に「園長先生へ」という手紙を書いて、私の机に置いていってくれた手紙です。 何の意味もないんですけれども、ちょっと紹介します。「園長先生へ 園長先生、仕事をして風邪や 花粉症になったりしないでください。今は花粉症が猿にもうつるそうです。何か猿と間違えられて。 だから仕事をし過ぎないように頑張ってください。周りの先生にも言っておいてください。何々ちゃんより。」
優しいじゃないですか。つい先日、1ヶ月ほど前、中学生の女の子が2人、保育園に来ました。そ して「私の名前知っている?」と言うから、「あ、何々ちゃんと何々ちゃんやろ」と苦し紛れに思い出して、ようやく答えて「あ、覚えておいてくれた」と喜んでいました。その時、「園長先生、メールできる?」というから「携帯、ああ、もちろんできるで」と言ったら、「メールアドレス教えて」 ということで、お互いに交換し合った。そんな若い女の子とね、メールアドレス交換したら、恥ずか しくなりましたけれども。その時にメールをくれました。「保育園が小っちゃくなっていましたね。7年は大きいかなと思いました」と。こういうメールです。保育園を卒園して、中学1年になって、 7年ぶりでした。そら保育園が小っちゃく見えますよね。そういう素直な子ども達、優しい子ども達に囲まれて給料もらえるなんて良いじゃないですか。ありがとうございました。
○フロア 子どものお話を伺っていて、子ども達も少なくなってきているということも心配なんですけれども。途中で保育園を辞めて行かないといけないような状況になっているこの増え方が、子ども達が少なく なっているにも関わらず、非常に多くなっているというのが気になっているんですね。今、どういう状況で母親のそういう精神的な問題も含めて、お話していただきましたが、なぜそこまで母親は追い詰められてきているんでしょうね。
小掠氏 1つは夫婦関係の破綻でしょうかね。それから、生育歴も結構聞くことがあるんですよ。 私が、これでは子どもがだめになると思ったのは、子どもを冷蔵庫に入れたんですね。でもね、そのお母さんは入れてすぐ、私のところへ電話をしてきましたね。どうして良いかわからなかったんでしょうね。すぐ飛んでいきました。本当に、冷蔵庫に入っていました。それで、私は決断しました。
そのお母さんも生育歴がかなり大変なものでした。いわゆる生活の苦しさ、夫婦関係のトラブルから、そういう薬物に手を染める、それが現代社会特有の何かストレスを持っている。何かどうして良いか わからない、頼れる人がいない、相談できる人がいない、孤立している。そういうところから精神疾患・薬物・アルコール、時にはシンナーなどに走る、そういうケースはよくあると思いますね。
○フロア 今日は本当にありがとうございます。感動的な話です。お母さんがいろいろと精神的な疾患を持っていらっしゃる方もいるということで、虐待の問題というのはなかなか大変だと思いました。子ども達は力を持っている。親や先生が上手くそれを引き出していかなあかんと。親のつながりみたいなものをつくり出すことというのは可能なのでしょうか。今日はお話を聞きながらそういうことを思いました。いかがでしょうか。
小掠氏 地域福祉は人としてのつながりというのが、常に一番基本になりますよね。いかに孤立・孤独をなくすかという。ですから、それぞれの持ち場でわれわれが関わる人が孤立していないように。孤立し ておれば誰かとつなげる。また、本人がつながりたいなと思うような環境を用意していく。私達が、「あなたとあなた、つながりなさい」と。そんなつながり方は作為的ですよね。ですから、例えば、私自身の立場で言えば、保育園に今、60家族が来ています。そうしたら60人のお母さんがいてはるわけですから、お父さんも含めて。こないだなんかは焼き芋大会をしたら、地域の高齢者の方々を中心に50人ほど来はって。それをまた保護者が焼き芋を焼いたり配ったり、応援に来てくれる。そういう親と地域の人がまたつながるという取組み。それがことあるごとに。
今日は第2木曜日で、ふれあい喫茶というのを地域でやっています。地域が主催ですね。市民館の2階の洋室・和室を使って、1時からやっているんですけれども、そこで保育園の子ども達が参加す る。そうしたらいろんなご馳走を、皆それぞれ子どもに100円ずつ渡すんですよ。「これで好きなもん食べれるで。」と。そうしたら、お店の人がまたサービスして、普通1品100円だけれども、3品 ぐらい付けてくれて、子ども達は大喜びで。
そこで「あんた、食べに行くんちゃうねんで、おっちゃんやおばちゃんと仲良くなりに行くねんで。」 そこでまたつながる。子ども達は、普段から毎朝のように園庭の掃除に来てくれるグループがあって、そこでも日常的につながっている。
運動会になったら50人が応援に来てくれて、テント張りからいろいろやってくれる。だから、日 常的にありとあらゆるつながりの場って、実は転がっているわけですよね。そういうのをこちらから意図的に仕掛けをするというか。本当は友達をもっと増やしたいという親もおる。今度はあるお父さんが料理人なんですよ。そうしたら親を対象にクッキングスクールをやってくれる。親がそれに参加 して「うちでもあんなんやったらつくれんねんな」と、レパートリーを増やすことができる。
そこで仲良くなった親同士とかが、また次の日は、今まで会釈もしなかったのが挨拶ができるよう になる。そのようなきっかけづくりを提供するということを、これは意識してやらないとだめだと思 いますね。勝手につながるというのは、なかなか今のご時世しんどいから、あまり出すぎてもいけな いし、任せっきりでもいけないですね。そこまでだんだん進んでくると、まだわれわれがそれをしなくても、リーダーシップを取った親自身が橋渡し役をやってくれる、そのようにどんどん広がっていったら、良いなという思いでいます。



