「愛国の罠」について 6942
昨日はご挨拶まわりの後、市会での断続的な打ち合わせ等。今週は読書週間(11/9まで)。先日、佐藤優著「愛国の罠」(ポプラ新書)を読みました。そもそも愛国とは何か?人により違いを感じますが、本文には、人類に普遍的な価値は生命であり、愛国心は究極以前のものとのこと。興味深い内容でした。
「まえがき」に凝縮されています。
「愛国(郷)心は、群れを作る動物としてごく普通の現象だ。人間は群れを作り、助け合って生きていく動物だ。狩猟採集の時代は、群れの規模が小さかったので、国家を作る必要がなかった。国家が存在しないので、愛国心も無かった。ただし、
自分が住む地域にこだわる愛郷心はあったと思う。動物の縄張り意識のようなものだ。
農業は紀元前9500年頃から始まったと見られているが、農業の発展と共に、一部に数十万、数百万人という巨大な群れを作る事例が生じた。このとき国家が生まれた。この人々の群れは、一定の土地に定住する。当然のことならが、自分が住んでいる土地に愛着を持つ。私たちが自分が住んでいる家に愛着を持つ延長線上の感情だ。
愛国心を英語でパトリアリズム(patriotism)と言うが、これは、故郷を意味するラテン語のパトリア(patria)を起源とする。この時代には、patriaは重要な価値の一つに過ぎなかった。家族や神のほうが、パトリアよりも重要な価値を持つことがあった。
21世紀に生きる私たちは、単純な愛国心を持つことはできない。産業社会に生きる私たちは、ナショナリズムという、特殊な形態での愛国心しか持つことができないからである。ナショナリズムの特徴とそれが産業社会において生じる必然性については、本文で詳しく説明したので、目を通していただきたい。おそらく、21世紀の現在、ナショナリズムの唯一の例外がカトリック教会の総本山であるヴァチカン市国だ。ヴァチカン市国の国民(全員がカトリックのキリスト教徒)は、カトリシズムという普遍宗教に対する忠誠を誓う愛国心を持っており、それはナショナリズムとは異質な概念である。
産業社会は、啓蒙的理性を基盤にする。地球は太陽を回る惑星の一つに過ぎない。また、マゼラン艦隊の世界一周(マゼラン自身は現在のフィリピン・セヴ島で殺害されてしまったが)以降、地球が球体であるということが実証された。となる
と、「上にいる神」というキリスト教的神観を維持することはできない。日本から見て上は、ブラジルから見れば下だからである。
産業社会の進展と共に、ヨーロッパ、北米、東アジアでは、神や仏を信じることなしに人間は生きていくことが可能であるという思想が流行した。神学の専門用語で、これを世俗化(セキュラリゼーション、secularization)と言う。しかし、人間は何かを信じることなく生きていくことができない。それは、人間が、他の動物と同様に死を免れることができない存在であることと関係していると思う。その関連で、複雑な知的操作を通じて伝統宗教や新宗教を信じている人もいるが(私もその一人でプロテスタントのキリスト教を信じている)、そういう人たちは社会全体から見れば圧倒的少数派だ。宗教無き時代に大多数の人々が信じるのは、貨幣と民族(≒国家)であるというのが私の認識だ。
特に人間が群れを作る動物であることを考慮した場合、民族(≒国家)という同胞の共同体のために命を捧げる行為は崇高なものとみなされる。確かに、自国が外国によって侵略された場合、同胞が外国軍によって殺害されたり、暴行の被害を受けようとしたりしているときに、それに対して無力であると分かりつつも死を賭して抵抗し、戦う人たちに私たちは共感と畏敬の念を覚える。
日本人ならば、特攻隊で死んでいった若者たちの話を聞くときに、あの戦争が侵略戦争であったか防衛戦争であったかという歴史認識とは別に、特別の感情を抱く。それは群れを作り、助け合い、しかも認識能力と表象能力と共感能力を持つ
動物である人間に備わった感情なのだと思う。だから、高度な知的操作を経た人が、ナショナリズムを全面的に否定しても、そのような言説は大多数の人々の心に響かないのだ。
ところで産業社会は資本主義と結び付いている。資本主義が発展すると格差が必然的に拡大する。そして、その発展がある臨界を超えると、資本主義は帝国主義化して、外国から利潤を得ようとする。この帝国主義がナショナリズムと結び付
くと、国民が国のために死ぬということが容易に神聖化されてしまう。この構造についても本文で詳しく説明したので、目を通してほしい。
科学技術の発展によって、人類は、生物・化学兵器、核兵器という大量破壊兵器を持つに至った。特に核兵器を用いれば、人類は地球を完全に破壊し、人間や多くの動植物を絶滅させてしまう能力を持っている。この破滅的シナリオが起きないようにするために重要なのが、われわれが「愛国の罠」に足を掬われないようにすることだ。
愛国心は、人間によって作り出された究極以前の価値である。愛国に、神のような超越的価値を付与してはならない。そのために重要なのは、愛国心を自然なものと見なさずに、社会契約によって成立した憲法によって規定された「憲法愛国主義」という枠を嵌めることだ。日本国憲法は、国民と天皇が、日本人と日本国家の生き残りを現実的に考えた上で契約した愛国の基礎となる文書なのである。
私は、プロテスタントのキリスト教徒なので、愛国心は重要であるが究極以前の価値と考える。究極的価値は、神と人間への信仰と希望と愛なのだ。」
また、佐藤氏は自身のメルマガで次のように記しています。大事なことだと思いました。
「愛国心は、国家と国民を統合する上でとても重要です。それが排外主義的にならないようにするためには、愛国心は究極以前のものであり、人類に普遍的な価値である生命を大切にするという認識を政治エリートが持つことが重要です。生命は生命だから大切です。そこに理由付けはいりません。最も重要な価値について、人間の限られた知恵で、その大切さを証明することはできません。生命は生命だから大切であるというトートロジー(同語反復)になるのです。」
よろしかったらどうぞ。