「いい選手の条件」について 6813
昨日は顧問を務めるしらとり台FCの練習へ。その後、地元の会合へ伺った後、ポスターの貼り換え。グラウンドで驚いたのはこどもの数。少子化にあって、クラブチームでもないのに、学区外からの入団も増え続けていること。基本的に横浜市立小学校の学区内での活動ですので、派手さはありませんが、指導者の力、保護者の力、チームの総合力であることは間違いありません。実際、全カテゴリで益々強くなっています。とてもうれしいです。
先日、日経新聞コラム「サッカー人として 三浦知良」にカズ選手が「武器を繰り出す気概」と題し寄稿されていました。いい選手の条件について書かれていますが、いい指導者、いい地域とは、といった広がりも感じる一文でした。
「15日の試合で今季初めて出場し、プロとしての40年目を改めて踏みしめている気がする。調子はどうかと聞かれれば「悪くもなく良くもなく」で、というのも、自分のコンディションと客観的パフォーマンスはまた別のものでもあるから。
自分としては絶好調でも試合に勝つとは限らない。自己診断ではイマイチという状態のときに監督からは称賛されることも。成果・結果なるものは不確実で、だからこそ、よりどころにするなら決まった習慣、ルーティンだと思っている。
鈴鹿で試合の前日、僕がなじんでいる調整メニューを仲間とともにこなして臨んだ。同僚は体が軽かったらしく「今週もやりたい」と言う。それもいいけれど、と僕は助言した。「先週うまくいったから次も、ではなく、自分のルーティンを確立したほうがいいぞ」
同じ状況や環境が毎回訪れるかは分からない。調整する時刻、移動の有無、思ったより暑い、涼しい。微細な条件の変化に左右されないルーティンを、自分のなかでつくっておく。選手が90分間の試合でボールに触れられる時間は、たかだか計2分間。だとしても、2分を輝かせるルーティンを自分なりに探していく。
40年やってきて、どんなやり方がベストなのかの答えは出せない。成功したからOK、失敗なので間違いというものでもない。正解が1つではない世界で、目標や問いにどう臨んだかというプロセスに僕らは注力する。常日ごろの行動や準備をそれに費やせてこそ、プロじゃないかな。
プロは「これで勝負できる」という武器を携えて生きる。それ以上に大事なのは、その武器を肝心な場面で出せるかどうか。
駆け出し時代、ブラジル代表と対峙しドリブルで抜き去れたとき、自分のドリブルの切れ味が通用するんだと実感ができた。監督は僕の武器そのものより、失敗しようがドリブルを挑むメンタリティーを高く買った。うまい選手ならばプロにはごまんといる。巡ってくる機会で武器を繰り出し続けた僕は、小さな成功体験を積み上げて道を開いていった。
トップレベルは体・技があるだけでなく、よく考えられる人でもある。特長、得手や不得手、なべて自分を理解できているか。それがいい選手の条件なんだ。」
カズさんと同じ58歳。身の程はわかっているつもりですが、自分を理解する力が十分とは、、、。
でも、伸びしろはあると思います。